波瀾万丈の人生を送った作曲家たちと違い、J・S・バッハ(1685~1750年)の生涯には、取り立てて特筆するような大事件はない。
ケーテンを経てライプツィヒの宮廷楽士兼作曲家として活動していたが、その生活は、芸術家と言うよりは職人的であり、音楽家というよりは専門職公務員的であったようである。
バッハにとって、作曲とは日課であり、作品をつくるというよりは、宮廷・教会行事などの必要に迫られて、(今の日本で例えるとバッハに悪いかもしれないが)国会答弁を徹夜で執筆する官僚のように作曲していたのである。
実際、この時代、作曲家とは未だ近代的な意味での芸術家とは程遠かったのである。
自分の思想や感情を吐露するのではなく、建築家が物理法則や力学法則に従うように、対位法という厳密な作曲技法に従って、音楽で構築物を造り上げるような、いわば、音の建築職人と言った方が正確なのかもしれない。
作曲家の自我など入り込める余地がなかったのである。
バッハ自らも、自分の作品は神から与えられた音楽法則によって生み出されていると考えていたため、楽譜を書き終えるとその末尾に
「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光を)」と記すのが習わしであった。
しかし、人並み外れた努力家のバッハは、毎日の弛みない鍛錬の結果、バッハの作曲技術は、最高峰の洗練を極めることになる。
対位法のなかでも最高度に難しいフーガを自由自在に操るに至ったのである。
(フーガとは、ごく短い主題を執拗に反復しつつ、微妙に変奏を加えていく技法である)
そして、その技法と音楽性の粋を集めた、まさにフーガの最高峰こそ、バッハが最晩年に取り組んだ『フーガの技法』である。
しかし、人生の最後を見据えつつ、自分の最後の作品となるであろうこの『フーガの技法』において、バッハは「謙虚」にして、「尊大」な意図を秘めていた。
完全に対位法のルールに従って作曲を行うという意味で「謙虚」であり、神の摂理にも似た完璧な対位法のそのまさに頂点に、J・S・バッハという人間がこの世に存在したという刻印を永遠に刻み込もうとしたという点で、「尊大」であるのである。
そう、バッハは神の忠実な下僕であることをやめ、人間で在る自らに栄光を浴させようと目論んだのである。
バッハは、『フーガの技法』という曲が完成した暁には、もはや音楽は神のものではなく人間のものとなる、すなわち、音楽は人間中心主義の時代を迎えることになると、考えていたのだろう。
バッハには、そのための計画があったのである。
まず、2つの主題からなる二重フーガを書き始め、展開部で第3の主題を導入し、三重フーガとする。
この展開を終えたところで、新たに、神々しい面持ちで第4の主題を導入し、前人未踏の四重フーガへと突入する。
そして、その主題こそ、自らの名前である
B-A-C-H
(和名:シ♭-ラ-ド-シ♮)という4つの音なのである。
この主題が導入されてしまいさえすれば、もはや音楽は止めようもないだろう。
対位法という必然が支配する力によって、あの主題たちが音楽を支配してゆき、その頂点でB-A-C-Hの主題が輝かしく鳴り響き、バッハはついに神の高みにのぼる、はず、であったのだろう。
作曲家バッハは一心不乱に筆を進めていた。
しかし、視えづらいのである。
五線譜がぼやけて見えるのである。
一体、なんだろうか。
なぜ、筆を進めれば進めるほどに、五線譜が霞み、見えなくなっていくのだろうか?
「これは、人間なのに神の頂を視ようとした罰なのだろうか?」
と、バッハは思ったかもしれない。
1750年7月28日、視力を奪われてしまった、バッハの体力は急速に衰え、作曲を続けられぬまま、世を去ったのである。
楽譜は、第4の主題、B-A-C-Hが導入されたところで筆が止まったまま残された。
未完で残された『フーガの技法』は、はからずも、バッハが常に書き記してきた、そして反逆しようとした「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光を)」という言葉を証しているのである。
私は、そんなバッハの姿やその余韻が、なんだか人間らしく、きらきらとしていて好きである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
スマホ1台で描いていると、特にAndroidで描いていると、記号が出なくて困ることがたまにあります^_^;
今回の場合は、音楽記号のナチュラル「♮」がストレートに出ず、四苦八苦しました^_^;
最近、本当に暑いですね。
体調管理に気をつけたいですね( ^_^)
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。