私たちは「正常」と「異常」という、相反する2語をよく知っているようで知らない。
「正常」と「異常」の両者の大体の意味は、本能的直感的に解っているが、具体的に「どういうことか」と、述べたり、「こうだ」と、断定したりすることは難しい。
しかし、「正常(normal)」という語は、さまざまな場面に出てくる。
かつて大工の差し金を意味するラテン語として「normal」という語は生を受け、今も、幾何学では、直角や垂直を表すのに使われている。
その自然な成り行きとして、いくつもの「正しい」という含みを持つようになった。
例えば、「正常(normal)」を内包しているものとして、通常、標準、普通、日常、典型、平均、予想通り、習慣、適合、共通、妥当、慣例、などがある。
そこから一歩進んで、「正常(normal)」は
「生物学的にも心理学的にも良好に機能している」≒「心身の病気にかかっていない」状態
を表すようになったのである。
辞書は、「正常(normal)」を定義できているようで出来ていない。
何が正常かを知るためには、何が異常かを知らなければならないのに、辞書で異常は
「正常でないもの、通常でないもの、自然でないもの、典型でないもの、基準に適合しないもの」などとなる。
辞書の(このシリーズの②では哲学、③は統計学などさまざまな「正常(normal)」の定義を検証してみながら描いていきたいと思う)「正常(normal)」は一方の語の他方の語の反意語としての定義であり、「正常(normal)」も「異常」きちんとした定義はなく、また、両者の間に有意義な線引きはされていない。
まず、辞書のなかでは、
「正常」と「異常」について、現実世界で問題を整理するのに役立つような、普遍的で超越的な定義は存在しないのである。
しかし、かつても今も小児精神科医はしばしば、その未踏の地にまで足を踏み入れ、毎回、子どもがその代償を払っている。
実際、10年ほど前なら日本でも、
「僕たちと子どもとは用いる言葉ひとつ取っても、言葉のニュアンスが違うからとても難しい。」と臨床医たちも躊躇していたし、私もまだよくそのような意見を聞けていたように思う。
しかし、特にここ何年軽く診断する傾向を、私は感じる。
さらに、「正常」と「異常」の曖昧さが悪用されたかたちで、子ども特有の周囲への反応の仕方すべてに精神疾患のレッテルを貼ろうとする一部の小児専門医がアメリカでは10年以上前から現れ始めている。
そのような小児精神科医たちのある研究に拠れば、21歳になるまでに未成年の83%が精神疾患の診断条件を満たすという。
また、DSM-5にかかわった専門家たちが(よかれと思ってらしいのだが)、「機嫌調節不安障害」と言う名称を「重篤な気分調節不安障害(DMDD)」という名称に変更した。
どう名付けようとも、私たちより多くの言葉を知らない子どもが、怒りや悩みを伝える手段として起こす癇癪(かんしゃく)を、
精神疾患にする発想自体がおかしいと私は、思うし、
先に述べたように私たちとて、それが「正常」であるか「異常」であるかなど、
判断する以前に、そもそも、私たちは、「正常」と「異常」の定義すら出来ないことを、忘れてはならない、と私は考える。
確かにDMDDへの名称変更にかかわった専門家たちは、小児双極性障害のすさまじいまでの誤謬を認識していたため、それらを是正すべく、DMDDという名称に置き換えようとした。
しかし、DMDDに置き換えたことによるリスクの方が大きかった。
DMDDは小児双極性障害を置き換えるだけにはとどまらず、あまりに対象範囲が広いものになってしまい、理解不足の人々が手にすれば、そもそも診断が必要ないか、あるいはもっと踏み込んだ診断が必要なあらゆる子どもたちにレッテルを貼ることに使われてしまう危険性をはらむものとなった。
子どもは私たちより、初めてのことが多く、興味や関心の範囲も、広い。
だから、いろいろな手段で周囲に反応するのであり、その過程で生じる怒りや悩みを伝達する手段として癇癪をよく用いる。
よって癇癪そのものや癇癪に付随するものに独立した正式な診断という地位を与えたことは誤りであり、DMDDはよくある、ありふれた、そしてアタリマエの症状を精神疾患に変えているだけともいえる、と、やはり私は思う。
癇癪がこれほどありふれといるのは、生存上の大きな利点があったからである。
私たち霊長類の祖先であるチンパンジーの親も子もも騒がしいものにかまったり、ひいきしたりする。
いわんや、人間においての癇癪やそれに近いものの大半は、人生の階段をのぼっているときの証拠に過ぎない。
DMDDの確固たる研究データは乏しく、わずかなグループの数年間のデータが基軸である。
また、子ども全体に予想される有病率もわかっていない。
「正常」な癇癪と「異常」な癇癪を区別できるのかすら解っていない。
さらに、他の疾患との関係も、経過も、望ましい治療法も解っていない。
ただ、確かに病に悩んだが、診断インフレと過剰処方にも悩み、
そこからの離脱にさらに苦しんだ私が、
過剰診断と過剰処方から逃れるための根拠として用いたり、蓄積したことを、描いていくことは、
なんらかの意味があると信じている。
(基本的な私の考えは前年にも記したが、今年はまた、改良しながら描きたいと思う。)
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
......あまり、あけましておめでとう、と言えない年始になっていますね......。
ラジオを聴きながら、何が出来るか考えていました。
私は、病気になってから最近まで、「ウサギとカメ」でいうと、「病でロスした分をとりかえそう」とウサギを目指しては、さらに視野狭窄になっていましたし、消化不良にもなっていました。
そんなとき
「ようこさん、ウサギじゃなくて、コツコツカメさんだよ」
と当時言ってくれた人に
「あなたにこの苦しみはわからない」と言い放ち
最終的に、12年前
こんなことばかり言い放ち、その人とも離れてしまった自分のことをさらに嫌いになり、さらに病気も悪化する、
という悪循環を繰り返していましたが、
8年前に、過剰診断と過剰処方から抜け出すことを決意し、収まってきたとはいうものの波のある離脱症状に今まで、日々コツコツと耐えてくることができました。
そんな視点から描いてみたいと思います。それが私に出来るひとつのことであるとも考えました。
また、今日からも、頑張り過ぎず、またコツコツと頑張りますのでよろしくお願いいたします。
カメのようにコツコツこそが、また1番の近道なのだとも最近は思っています。
皆さま、こんな私ですが、今年もよろしくお願いいたします。
読んでくださりありがとうございます。
では、また、次回。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし 急ぐべからず・・・
悩むも良し 後悔するもよし
でも あなただけの人生ですよ
気負わず 頑張らず 今日という日を思い通りに楽しんで過ごしてください
私の経験では30代40代が人生のピークです
なんでもありの一回だけの人生
過去は消せないが未来は拓けます
おはようございます、コメントありがとうございます!!
頑張り過ぎず頑張ってみます( ^_^)
今年もよろしくお願いいたします( ^_^)
さまざまな比喩を用いての説明は、いささかボケた年寄りの頭にもストンと落ちてきました。
私には軽度ではありますが知的障害の40代の娘が居ます。
小学校から中学校にかけては随分と虐められ、なにが正しくて、なにが間違ってるのか、
そしてなにが最善手なのか、私も女房も随分悩んだことがありました。
気がつけば少しずつの理解と、時の経過が解決してくれたのですが、癇癪という表現が・・・ 痛いほど刺さりました。
勉強になりました。
ありがとうございました。
新年明けまして
おめでとうございます⛩
今年も宜しくお願いします😊
ようこさんにとって
素晴らしい一年に
なりますように。
ステキな年始を☆★☆
テル
>カメのようにコツコツ
これは大事ですね。
だけど、、、誰もが始められるけど、継続することが難しい!
僕が心がけているのも、これに近いのかな、、、?
『ゆっくり焦らず諦めず』
これを心に留めて毎日を過ごしてます。
今年も宜しくお願いします🙇
コメントありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします( ^_^)
テルさん
あけましておめでとうございます。
いつも読んでくださりありがとうございます!
またいつも温かいブログありがとうございます( ^_^)
今年もよろしくお願いいたします
(追伸)温かいコメントが心に染みました。
ありがとうございます( ^_^)
いつも読んでくださりありがとうございます。
また素敵な記事をいつも楽しく拝読させていただいています( ^_^)
今年もよろしくお願いいたします。