願望的思考は私たちの遺伝子の奥深くに入り込み、未だに、厳密な論理や科学的事実を、頑固にはねのけているようである。
この願望的遺伝子は、私たちの祖先においては重要かつ有用なものだった。
なぜなら、私たちの祖先は、自分が住む世界を、実際には、ほとんど支配できず、また、機械論的に世界を理解することも出来なかったため、魔術的思考や儀式、神話を用いて、自らが世界を支配しているという幻想を作り上げて精神的な安心感を得ていたからである。
しかし、雨乞いのために儀式舞踊をしたり、獲物を誘き寄せるために洞穴の奥に絵を描いたり、病気を治すためにジャーマンと霊界を訪れることに意味が無いであろうことを理解しているはずの現代に生きている私たちには、願望的思考は、有用どころか、有害なものである。
実際に、私たちは、不断に起こる戦争、慢性的な資源や食糧の不足、繰り返されるパンデミック、それらの背景にある地球温暖化などの人類生存の脅威がなくなることをただ願い、そのような危機がなんとか魔法のように消え去ることを思い描き、最後の最後に、テクノロジーによって救いの手が差し伸べられるのをおとなしく、しかし意味もなく待っている。
しかし、たとえ、願望的思考に陥りがちな人間の性質に変わりがなかったとしても、私たちを取り巻く状況は、時間の経過とともに大きく変わっているのである。
進化の過程において人間が端役を演じていた時代、ほとんどすべての事柄が私たちの力が遠く及ばないところで、起きていた。
今や人類は、ステージの中央に立ち、強力な手段を手に入れている。
それは、言うなれば、私たち自身とこの世界を救うための、あるいは、破壊するための手段である。
確かに、願望的思考を持ち続けることによって、一時的には気分がましになったり、少なくともやましい気持ちを減らしたりすることは可能であろう。
しかし、そのようでは、実際にある問題を解決する現実的なステップを踏むことができなくなってしまう。
今この瞬間に、願望的な思考にとらわれて生きるならば、私たちは、先の世代に対しての責任を負うことを忘れてしまっているということになるのだろう。
ところで、願望的思考の果てのかたちのひとつを、ラパ・ヌイ(以下イースター島)の歴史に見るように思うのは、私だけであろうか。
イースター島の悲劇は、時代と場所を問わず、これまでの世界文明の多くに見られ、人間がいかに偉大であるか、しかし、また、いかに誤りに陥りやすいかを教えてくれるようである。
イースター島という小さな島で生まれた注目すべき文明からは、人間が持つ輝かしい創造力が見てとれるが、その文明は状況を見抜けず、見抜けても、「危機的状況はいつか過ぎ去る」という願望的思考(にしがみつく人間の愚かさ)にのために急速に崩壊した。
800年前にイースター島に移住した数十人のポリネシア人は、勇敢だった。
長い航海を経て、地球上で最も孤立し先の見込みもないとされる島のひとつに移住したのである。
このラパ・ヌイ人は、独自に文字体系を編み出した世界史上数少ない民族である。
また、他に例を見ないのは、彼ら/彼女らが完全な孤立状態の中で、このような知的偉業を成し遂げたことである。
つまり、ラパ・ヌイ人は、一般的に必要とされる、物品の交易に伴ったアイデアのやりとりもなく独自の文明を築いたのである。
また、それほど肥沃でないイースター島が、効率のよい多産な土地に変わったことによって、急激な人口爆発が起き、数十人だった人口が1万人を超えるようになった。
農作物が豊富になると常に起こることであるが、社会の階層化と人口過剰が進み、頂点に君臨する者の権力と威信を確立するための建造物を造ることに励むようになる。
実際、イースター島ほどの面積の島に、これほど多くの建築物が造られたことは、いまだかつてない。
約1000体の石像は、驚くべき工業技術、芸術的創造力、職人の技能だけでなく、人間の貪欲さと虚栄心を示している。
当初、石像は高さ1メートル前後、重さは数トンくらいで、荒削りなものであった。
それが時間の経過とともに次第に大きくなり、最大の功名心を表す最も新しくできた石像は、高さ約12メートル、重さは約80トンに達した。
しかし、このころ、イースター島の文明は崩壊しつつあり、崩壊しつつある現実を見ないように、見たとしても大丈夫だと安心したいという、願望的思考も加わって、像は不必要なまでに巨大化した。
人口過剰から資源が枯渇しているにも関わらず、イースター島では、根本的な解決を避けるかのように、島全体の半分にあたる巨大な石像は、巧みな牽引技術と人力を投じて、文明が崩壊しつつある間にも、引き続き彫られていたのである。
人間の偉大さだけではなく、人間の分別と自制が欠如を絶えず思い起こさせるかのように石像は今も佇立している。
イースター島は、失われた過去の栄光を今に伝える壮大な遺物が残る、教訓に満ちた、しかし、地球上で有数の悲しい場所である、と、私は思う。
一般的に歴史家やジャーナリストは、根本に隠れた原因を無視し、表面に現れた内戦、侵攻、政治的策略などの「結果」にばかり注目しがちである。
確かに、こうした結果は、ドラマチックな物語を提供するかもしれないが、人口過剰、資源の枯渇、気候変動といった根本的な原因が運命を左右したという、本当の物語を見落とすことにつながる、とも、私は、思うのである。
偉大な文明はどれもやはり同じようなサイクルを辿ってきたのではないだろうか。
つまり、繁殖とテクノロジーで成功を収めたことが、結局悲しい運命につながるというサイクルを繰り返しているのである。
現在、私たちは、「まだ大丈夫」という願望的思考によって自分たちの限界を押し広げ、すでに、環境の悪化、人口爆発、天然資源の減少、気候の変動という壁に直面している。
私たちの文明もまた、願望的思考から、速く我に返らなければ、未来の考古学者たちから、私たちが賢明であったと同時に、なぜこれほど愚かであり得たのか、と首を傾げられる日が来るであろう。
私たちの文明が、逃れることの出来ない人間の性質と運命を示す、第2のイースター島とならぬよう、私たちは、「現状維持」という姿勢に現れる願望的思考を見直し、「持続可能な生き方」を模索しなければならない局面に、もはや、来てしまっていることを自覚しなければならないだろう。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日は、貴重な晴れです( ^_^)
洗濯物をきちんと干しておこう、と、朝日を見ながら張り切っています(*^^*)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。