シャーレで数個のバクテリアを培養した結果を、私たちはほぼ間違いなく予測することが出来る。
数個のバクテリアはすさまじい勢いで増殖し、とめどなく餌を食べる。
やがて増殖したバクテリアでシャーレはいっぱいになり、餌はなくなってしまう。
そしてコロニーは完全に死滅するのである。
このシャーレの中のバクテリアが自らを消耗し尽くしてしまうのと同じような現象が人間の世界で起こることを
「異化崩壊(catabolic collapse) 」という。
歴史上、成功を収めた複雑な社会はすべて、最終的に身の丈に合わない暮らしをするようになり、必要な量、あるいは維持できそうな量以上の物を、生産および消費した挙げ句、資源を使い果たして崩壊してきたのである。
文明が消滅する直前に生産性がピークに達することは、考古学で常に明らかにされている。
また、いつも最後に残るのは、うず高く積もったゴミの山である。
残念なことに、私たちの経済政策はすべて、致命的欠陥の在る過去から学ばない想定に基づいているようである。
それは、つまり、絶え間ない経済成長は、国が生き残るために本来良いことであるだけではなく、基本的に不可欠なことだという想定である。
だから、経済成長が妨げられれば、「景気後退」「不景気」などと罵られ、人々にもっと金を使わせ、消費させるための苦肉の財政・金融政策によって景気を「好転」させるのであろう。
しかし、GDPのうちの相当な割合(経済大国アメリカでは約70%)は役に立たないことが多い製品に対する個人消費に由来し、もっと効率的で持続可能な世界につながるインフラプロジェクトや研究のための支出は少なすぎる。
また、新車の生産台数は多すぎるが、公共交通機関のシステムは少なすぎる。
さらに、広告業界全体が、ハクスリーの『すばらしい新世界』で痛烈に皮肉られた見境のない過度な消費を促すことに力を注いでいる。
「流行遅れ」などによる商品の計画的陳腐化は、私たちの経済において重要な役割を果たしている。
こうした状況はすべて、企業の利益を上げる、という点では素晴らしいが、私たちの目標を「私たちを幸せにすること」とした場合は、持続不可能で、本質的に、不要なこと、ではないだろうか。
さて、「Crying Indian」と呼ばれた、約1分間のテレビコマーシャルを見たことがあるだろうか?
私は、ネット検索してでも見る価値があるコマーシャルだと感じているし、それを何度見ても私は心が痛む思いになる。
このコマーシャルでは、Iron Eyes Codyさん扮する1人のアメリカ先住民が、とても重苦しい沈痛な面持ちで、いくつものゴミが浮いた川を、船で下っている。
ふてぶてしく白煙を上げながら、両岸に立ち並ぶのは、川を汚している工場たちである。
沈痛な面持ちのままの彼が、岸に上がり、打ち上げられた、いくつものゴミの上を歩いて高速道路に近づくと、いきなり、車から無造作に投げ捨てられたゴミが、彼の足元に、落ちる。
そのとき、静謐な表情をしている彼の顔にひとすじの涙が静かに、流れ、
「People start pollution,people can stop it(汚染を始めたのは人間、止められるのも人間)」
というレーションが静かに、しかし、耳朶を打つように流れる。
このコマーシャルは大きな反響を呼んだ。
そして、今では、毎年世界規模で行われるアースデーの取り組みのきっかけになったともいわれている。
確かに、諸手をあげてこのCMを制作した団体(キープ・アメリカ・ビューティフル)を賞賛出来ない道義的な矛盾は存在する。
キープ・アメリカ・ビューティフルは、これまでも、そして現在も、活動資金の一部を結局はゴミと使い捨ての製品を多く製造する者たちから資金を得ている。
ゴミ問題を解決するためには、善と悪の同盟関係が必要だったということかもしれない。
しかし、やはり「Crying Indian」と呼ばれるCMは、私たちに、「このままではダメだ」と気付かせ、経済成長や消費主義から、持続可能性や足るを知る方向へ、私たち自らの姿勢や、制度、経済を転換させることを考えさせてくれる。
地球上の私たちは、シャーレの上のバクテリアに然も似たり。
バクテリアよりは人間の方が考えられるはずだから、本当に必要としないものを大量に製造することを止め、手が届く範囲の物から費用がかからない良質の幸福を得ることを重視するように心がけられるはずだ。
これまでよりも質素な生活は、たぶん、たいてい、もっと幸せな生活なのかもしれない、と、私は思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日は、雨ですね。
大雨の地域もあるそうななので、気をつけたいですね。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。