「私がことばを使うとき」
ハンプティ・ダンプティは、いくらかばかにしたような口調で言った。
「ことばは選んだとおりの意味になる--それ以上でもそれ以下でもなく」
「問題は」アリスは言った。「ことばにそんなにたくさんの違った意味を持たせられるのかということよ」
「問題は」ハンプティ・ダンプティは言った。「どちらがご主人さまかということだ--それだけさ」
(ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』より)
ハンプティ・ダンプティは、自分には、ことばを支配してその定義を左右する力があるとほらを吹く。
この台詞のあと、ハンプティ・ダンプティは高慢の報いを受け、塀の上から落ちて潰れる。
アリスが、鏡の国で何度も気づかされることのひとつは、ことばが制御不能になって、文脈にまったくかかわりなく、さまざまなまぎらわしい意味を帯びることだった。
ことばはこちらが「選んだとおりの意味」になるというより、向こうが解釈したとおりの意味になる。
そしてそれは、こちらが意図したもの以上にも以下にも十分になり得る。
そしてそれは、診断名や診断インフレについてもいえるであろう。
アメリカ精神医学会には、診断インフレが国政までをも侵害するとして、過去の歴史からの反省に立った優れた倫理規定がある。
「自ら診察していない政治化に対して診断を下すことを明確に禁じる」、と、いう倫理規定である。
その倫理規定が生まれた背景に在る話は、1964年の大統領選挙に遡る。
当時、リベラル派の精神科医たちが、極右派の共和党候補であるバリー・ゴールドウォーターを不当に批判したことがあった。
「ゴールドウォーターは精神疾患を患っているため、核のボタンを託すことはできない」、と、いう『診断』を公表したのである。
精神医学の力を借りて、ゴールドウォーターに対する政治的不満を専門家の資格を用いて医学的見地から処理する権利は彼らには無かったのに、なぜこんなことに......と、苦悩したアメリカ精神医学会が先の倫理規定を作ったのである。
しかし、やはり悪夢は終わっていなかったようだ。
2016年の大統領選挙のとき、選挙活動がはじまって早々に、私の尊敬するフランセス博士(精神科医)の元へ、あるプロデューサーから、全国ネットのテレビへの出演依頼があった。
それは、フランセス博士のトランプ氏嫌いを知っていながら、
「ドナルド・トランプ氏の心理を分析し、精神医学的診断をしてほしい」と頼んだそうである。
「精神医学の名を借りた悪口」を、フランセス博士は厭い、出演依頼を断った。
さらに、フランセス博士は
「トランプ氏ではなく、トランプ氏を大統領に選ぶ社会の病理」に目を向けさせようとしていたし、トランプ氏の精神分析をもとにした倫理観の低い議論を、精神疾患を持つ人をおとしめるものとして批判した。
(さすが、フランセス博士である。)
しかし、私は、日本にはどんな病理が潜んでいるかを考えるとき、自らが
「私たちは、物事をありのままに見ない、自分たちの見たいように見ている」というタルムードの格言しか思い出せないような、無責任な態度になりがちなことを改めて認識する。
日本の政治家の不祥事をひとつ、取り上げると、それは危機に瀕する世界に現れた症状であって、その原因ではない。
私たちが抱える問題すべてを酷い政治家たちのせいにしてしまうと、そんな政治家の出世を可能にした社会に根深く潜む病が、見逃されてしまう。
彼ら/彼女らを批判するだけに私たちが留まることは、社会に潜む病理や狂気を見て見ぬふりをすることになりはしないだろうか。
私たちひとりひとりはある意味正気を保つための鍵でありその番人でもあると、私は、思う。
そして、まず、私たちが自分自身を洞察しなければならないのである。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
12月なので今年の考えを整理&そこから進展させるとともに、来年も皆様に読んでいただける文章を目指したく思いながら、描いています。
皆様の文章を拝読し、自身も皆様の前にここgoo blogにきちんと文章を出させていただいてから、12月で半年になります。
今までもいっぱいありがとうございます。
これからもとってもよろしくお願い致します。
また、関東は温かくなったりで、冬物のコートが外に出られず、不満げなようにすらみえてきます。
ただ、朝晩は寒暖差があるので気を付けたいですね。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
私の友人は癖が強くて話題が尽きないです
私の実弟は臨床心理士で弟嫁は精神科医師
どっちも癖ありすぎ(離婚済み)
そのうち、それに触れるかも・・・です
いつも応援有難う
女子会忘年会が恐ろしい デス