「フランケンシュタイン」
と聴くと何を想起するだろうか??
怖ろしい姿形をし、残虐な「怪物のような生き物」だろうか。
確かに
原作である、メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』では、
「怪物のような生き物」をつくってしまった
フランケンシュタイン博士
は
本当の「怪物」であるかもしれない。
しかし、多くの人たちは、
フランケンシュタイン博士によってつくられたものの、放置され、
優しい心根分をもっていたが、
徐々に孤独や絶望、
この世界にあふれる自他を問わない怒りや憎しみから、
破壊するだけの怪物のようになってしまったし、
最初から最期まで
「名前も付けてもらえなかった生き物」
のこと≒フランケンシュタイン
としているようである。
おそらく、
怖ろしい形相に首にナットが刺さり、うなり声を上げるだけで言葉が通じない怪物≒フランケンシュタインのイメージは、
1931年公開の映画『フランケンシュタイン』において、
ポリス・カーロフが演じた怪物のイメージが大きく、
その後、その視覚的イメージの強烈さから、観る者に恐怖を感じさせるためのものとして定着したのであろう。
しかし、
原作からの著しい乖離のため、原作自体の存在やその価値が埋もれることは残念である。
よって
メアリ・シェリーが描いた哀しい、怪物のようになっていった生き物の姿とその先にメアリ・シェリーが言いたかったったことに焦点を当てたいと思う。
いきなりではあるが、
「名前も付けてもらえなかった怪物のような生き物」(以下「名前のない怪物」)は、
本当に孤独で、寂しくて、絶望していたのだと、私は思う。
フランケンシュタイン博士は、好奇心を満たすべく、
当時の最先端の科学を用いて、名前のない怪物をつくるが
博士は気に入らない、と、すぐ名前ない怪物を捨てる。
はじめは、名前のない怪物は、まるで親を求める無垢な幼子のようである。
生みの親恋しさと、存在理由を知りたさに、
名前のない怪物が追いかけると、博士は逃げてしまう。
名前すらないのは、名付ける前にフランケンシュタイン博士が捨ててしまったからである。
生みの親にすら避けられる孤独
と人間たちの(自身の本質を視ようとしないで他を攻撃する)勝手な思考や行動
に絶望し、
残忍な行動に走ってゆくのだが、さらに恐怖をおぼえた博士は怪物から逃げてしまう。
名もない怪物は、
愛情に飢えた憎しみのなか、
最期まで博士を追いかけながらも自死を選んでしまうのである。
いささか名前のない怪物の肩を持ちすぎかもしれないが、ざっくりと
名前のない怪物側からのあらすじを述べてみた。
メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の副題を「あるいは現代のプロメテウス」と付けた。
彼女の科学に対する卓越した批評性は、このようなところにも発見できる。
成果、業績、収益のために、
倫理観を捨て、人間の尊厳を軽視するような実験結果は、
成功でも進歩でもなく、むしろ有害ですらあるのだ、
と、名前のない怪物に、名前のない怪物を通じたシェリーの視座に、そこからのメッセージに言われているような気がしている。
ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
なかなか1回でさらっとは描くことが出来ず、次回以降に続けてしまうのです。
まだまだ私は修業が足りないようです、が、これからもよろしくお願いいたします。
では、また、次回。
いつもとっても博学ですよね😄
本もたくさん読まれて。
今日もお互い、
ステキな一日になりますように☆★☆
テル