三島由紀夫の『天人五衰』を掘り下げる中で、
「みる」こと
と
「認識する」こと
の差異について着目したのだが、今回は、
透と慶子の会話について、
透の失明直前でその引き金でもある
「クリスマス晩餐会」
の場面で、
見てゆきたいと思う。
私は、これらの会話が、
最も印象に残ると同時に、
この物語がこの部分に引き絞られている(≒突き詰めればこの部分に集約されている)
と考えている部分のひとつである。
慶子「私の言ったことをよくおぼえておいでになるといいわ。
あなたが見たり知ったり、
見究めたつもりになってしていたことは、三十倍の倍率の望遠鏡の、小さな円のなかだけのことだったの。
その中だけを覗いて世界だと思っていれば、あなたは永久に幸福だったでしょう」
透「そこから僕を引きずり出したのは、あなた方じゃありませんか」
慶子「そこから喜んで出てきたのは、
そもそもあなたが、
自分は人とはちがうと思っていたからでしょう。
松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、
飯沼勲は使命に、
ジン・ジャンは肉につかまれていました。
あなたは一体何につかまれていたの?
自分は他人とちがうという、
なんの根拠もない認識だけにでしょう?
外から人をつかんで、
むりやり人を引きずり廻すものが運命だとすれば、
清顕さんも勲さんも、
ジン・ジャンも運命を持っていたわ。
では、あなたを外からつかんだものは何?
それは私たち(→本多と慶子)だったのよ」
慶子は、このあと、透に
自分は「見通し屋」
であり、
「己惚れた認識屋」
である透を引っ張り出しに来た
「すれっからしの同業者」
だと言う。
「みる」こと、と「認識する」
ことの差異をこの会話は、
説明も叶わないくらいに、核をついて表現しているし、この部分に集約されている。
また、
『豊饒の海』を通じて存在する、
時間軸や場所軸、そして彼/彼女らの背景などのある意味異なる次元の主人公たちが、作品の中で、
織りなしてきた反物の模様を観るように、
私はよく読む度、思い出す度、かみしめる度に思う。
ここまで、読んでくださりありがとうございます。
なんだか、感想になってきてしまったようにも思います。
上手く描けないものだなあ、とも思います。
精進しなくては、と思います。
今日も頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。