「なぜだろうか、五線譜がぼやけて見える」
1940年代後半、J・S・バッハは、頻繁に目を擦るような動作を繰り返していた。
「なぜだろうか、筆を進めれば進めるほど、五線譜が見えにくくなってゆく。
これは、人間の分際で、神の頂に達しようとした、懲罰なのだろうか」
そして、1750年7月28日、視力を奪われたバッハは、急速に体力も衰え、作曲を続けられないまま世を去った。
J・S・バッハに何が起こったのか、今回は少し遡って考えてみたいと思う。
意外かもしれないが、実は、J・S・バッハの生涯に、取り立てて特筆すべきものは、あまりない。
ケーテンを経てライプツィヒの宮廷楽士であり、作曲家としても活動したものの、その生活は、芸術家というよりは職人的であり、音楽家というよりは、専門職公務員的であった。
バッハにとって、作曲とは日課であり、作品を作るというよりは、宮廷・教会行事などの「必要に迫られて」、言ってみれば、国会答弁を徹夜で執筆する官僚のように、作曲をしていたのである。
実際、バッハが生きた時代、作曲家は、未だ、近代的な意味での芸術家とはほど遠かった。
この時代の作曲家は、自分の思想や感情を吐露するのではなく、建築家が物理法則や力学法則に従うように、対位法という厳密な作曲技法に従って、音楽で構造物を作り上げる、音の建築職人と言った方が正確であった。
そこには、作曲家の自我など入る余地もなく、バッハ自らも、自分の作品は、神から与えられた音楽法則によって生み出されていると考えていたようで、楽譜を書き終えるとその末尾に
「Soli Deo Gloria」
と記すことが習慣であった。
しかし、このような弛みなき鍛錬とも言える日々が積み重なり、バッハの作曲技術は、当時の、否、当時に限らず空前絶後の最高峰の洗練を極めることになる。
バッハは、対位法の中でも、最高難度のフーガを自由自在に操るに至ったのである。
ちなみに、フーガとは、ごく短い主題を執拗に反復しつつ、微妙に変奏を加えてゆく技法である。
そして、その技法と音楽性の粋を集めた、まさにフーガの最高峰こそ、バッハが最晩年に取り組んだ『フーガの技法』である。
しかし、人生の最後を見据えつつ、最後の作品となるであろう『フーガの技法』において、バッハは謙虚にして、尊大な意図を秘めていた。
完全に対位法のルールに従って作曲を行うという意味で、謙虚であり、神の摂理にも似た完璧な対位法の、その正に頂点に、
「J・S・バッハという人間がこの世に存在した」
という刻印を、永遠に刻み込もうとしたという点で、尊大なのである。
バッハは、神の忠実な下僕であることを放擲し、人間である自らに栄光を浴させんと目論んだのである。
「この曲が完成した暁には、もはや音楽は神のものではなく、人間のものとなるだろう。」
と、音楽は人間中心主義の時代を迎えるだろうとすら、バッハは考えていたのかもしれない。
バッハの計画は、こうである。
まず、2つの主題からなる二重フーガを書き始め、展開部で第3の主題を導入し、三重フーガとする。
次に、この展開を終えたところで、新たに、神々しい面持ちで以て第4の主題を導入し、前人未踏の四重フーガへと突入する。
そして、その主題こそ、自らの名前である
「B-A-C-H」という4つの音なのである。(→和名では、シ♭-ラ-ド-シ♮という4つの音である)
「この主題が導入されてしまいさえすれば、もはや音楽は止めようもない。
対位法という必然が支配する力によって、BACHの主題が音楽を支配してゆき、その頂点で、輝かしく鳴り響くのだ」
と、バッハは思ったかもしれない。
バッハは、ついに、神の高みに登るかに見えた。
しかし、冒頭のように、一心不乱に筆を進めるバッハの視力は、衰えてゆく一方だった。
そして、第4主題BACHが導入されたところで、筆が止まったまま、楽譜は残され、C・P・E・バッハの手により
“Über dieser Fuge, wo der Nahme BACH im Contrasubject angebracht worden, ist der Verfasser gestorben.”(→「BACHの主題が導入されたところで、作曲は中断された」)
というメモが記された。
未完で残された『フーガの技法』は、バッハが常に、書き記してきた、そして、反逆しようとした
「Soli Deo Gloria(ただ神にのみ栄光を)」
ということばを証しているのかもしれない。
たとえそのことばが、楽譜を書き終えていないため、書かれていなかったとしても。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。