おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

GDP(国内総生産)とGNH(国民総幸福量)-「持続可能な社会」を考える④-

2023-11-16 06:14:09 | 日記
「驕傲(たかぶり)は滅亡(ほろび)に先立つ。」
(箴言16章18節)

国連の持続可能な開発ソリューション・ネットワークは、2011年から、「世界の幸福プロジェクト」を開始し、参加国に対して、国の開発目標として幸福に重点を置くよう推めている。

一時期盛んに、ブータンが「幸せな国」だ、と報道されたことがあるが、それは、2011年から、「世界の幸福プロジェクト」の開始に伴い、国民総幸福量(GNH)の指数が、国の長期的な成功を図る指標として、注目を浴びたからである。

現在の標準である国内総生産(GDP)も、もちろん大事だ。

しかしGNHが注目され、人々が関心を持った背景には、
GDPが、経済活動の利点を強調し、気付かないうちに、人々に大きな幸せをもたらしている非経済活動(余暇、健康、文化、安全、自然など)を著しく過小評価していることがあるのかもしれない。

ある意味無駄かもしれないものまで常に競って生産し、消費する国は、資源を浪費し、環境を汚染し、人生を楽しむ時間と安心を国民から奪っている可能性が高いにもかかわらず、GDPの数値は高くなる。

孔子が
「良い統治が広く実現するのは、近くの人々が幸せになり、遠くの人々がそれに引きつけられるときである」と述べたのが、
政府が国民の幸福を最も高い目標として掲げるべきだという発想の長い歴史の始まりを告げることばであろう。

現に、イギリス、フランス、ドイツ、シンガポール、タイ、韓国は、生産性や金銭的な蓄えのみならず、「社会的な蓄え」の創出に政策決定の根拠を置くことに、特に関心を示してきた。

前出のブータンは、GNHの実現に関して最も進んでいて、経済の健全性、環境、肉体の健康、精神の健康的、社会の健全性、ガバナンスを定量的に測定している。
それらの数値の合計を人口で割り、「1人あたりの幸福度」を算出するのである。

住んでいる国は、幸福度に大きな影響を与える。

国の幸福度を予測する最も重要な判断材料は、富、長寿、公平さ、自由な人生の選択、腐敗がないこと、頼りにできる人々や制度が存在することである。

また、国の幸福度は時代によっても変わる。
過去5年間に、60か国幸福度が上昇し、41か国で低下した。
世界の貧困が軽減されるにしたがって、世界はいくらか幸福になりつつあり、地域による幸福度のばらつきがいくらか修正される傾向がみられる。
幸福度もまた、他の物事と同様にグローバル化しつつあると言える。

幸福度ランキングで上位になる国は少しの変動はあるものの、スカンジナビア諸国、特にデンマークが上位グループをリードしている。
上位になる国々は、経済が活発なだけではなく、効率的な政府、効果的な医療、強力なセーフティーネットの仕組みを持ち、富の分配に不公平が少ないため上位になることは、解に難くない。

かつて、北欧諸国は、成長重視の経済を世界で最も積極的に推進していたが、
現在は、合理的な持続可能性を実現した最良の絵本となっている。

他に高いスコアを示しているのは、オランダ、スイス、オーストラリア、ニュージーランドだ。
また、近年、ラテンアメリカ諸国はスコアの上昇幅が最も大きく、経済力に比して健闘している。
その理由は、家族やコミュニティの強固な絆に大きな価値見出しているからだといっても、言い過ぎではないであろう。

いま、幸福度ランキングで下位になっている国々は、著しい人口過剰から生じた領土問題、戦争やテロに苦しむ中東諸国、アフリカの大多数の国々、およびアフガニスタンである。

持続的な社会のみならず、持続的な幸福も、
国の安定と安全に深く依存していることを、私たちは識っておくべきである、
と、私は、思う。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
明日から、数日間、また不定期更新となります。
よろしくお願い致します。

寒くて、スマホを打つ手(→いつもより、というか日に日に寒くなるので、ブログの日記を描く手
?指先??がスローペースになるのが解ります^_^;)がかじかむ朝です。
体調には気を付けたいですね。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。

-「持続可能な社会」を考える③-

2023-11-15 05:56:45 | 日記
「自然は長期的に見るが、人類は短期的に見る。
自然は多様性を選び、私たちは標準化を選ぶ。
さらに私たちは、作る物を均質化し、人びとをも均質化している」(アレン・フランセス)

約2世紀前に登場したジェレミ・ベンサムは、
個人の道徳的判断と社会的決断に関する実用的な指針として、功利主義に則った計算法を編み出した。
彼によれば、快楽と苦痛は、
その強度、持続期間、予測可能性、危険性、そして他者にも広がる一般性に従って、
可能な限り正確に計算することが出来る。

さらに、ベンサムは、これらの数値を個人ごとに合計し、さらにそれを合計して、社会全体の数値とすることが出来るとした。

ベンサムの考え適用すると(→ベンサム本人も触れてはいる)、
公共政策の良し悪しは、抽象的な原則ではなく、むしろ政策がもたらす実際の結果に即して判断される。
つまり、最大多数にして最大の善を、現代にも、将来にも、もたらしているか、という観点で考えることが出来よう。

功利主義は、欠点はあるが、必要なものである。
その欠点とは、価値判断から離れて功利を計測することが出来ないという点である。
例えば、ヒトラーは、人類に対する残虐な行為をする一方で、自分は、ドイツのために最大の善を促進する功利主義者だ、と、主張できてしまうのである。
一方、功利主義が必要とされる理由は、個人の行動や公共政策にとって、これ以上よい指針がないから、である。

生存する上で最も本質的な価値は何なのか?

その達成の度合いを計算する最善の方法は何なのか?

未来の長きにわたって人類の快感と苦痛の最適なバランスを考慮しつつ、
世界全体の快感と苦痛の最適なバランスを保てる可能性が高い政策は何なのか?

これらの課題に対して、私たち人類は協力して解決策を見いだせるか、どうか、が、まだ答えの出ていない重大な疑問である。

しかし、私たちの社会の目標は、
合理的な長期計画を適用し、現実社会の問題に対処することであって、
短期の放縦な快感を助長する否認や願望的思考に従うことではないはずである。

当然のことながら、成長優先の経済から持続可能な社会経済に変わることは当然、混乱を伴う大きな影響をもたらす。
そうした影響の帰結には意図されたものもあれば、予想出来なかったものもある。

はじめに、1万年前の農業革命の到来とともに、不断の成長ということが人類を導く目標になった。
つぎに、400年前には、成長を加速させることが、資本主義革命の目標となった。

そして、200年前の産業革命とともに始まった桁違いの急激な成長は、現在のシリコンバレーで十二分に体現されてきた。
さらに、今、世界を支配する多国籍企業は、四半期の収益に一喜一憂し、長期的未来を守ることなどは二の次だと考えているようにすら見える。

確かに、私たちの人類は、
1万年の長きにわたって、好き放題限りある資源を浪費し続けていたのだから、
今更になって、自分たちの身の丈に合った生き方を学ぶのは容易ではないはずである。
持続可能な社会に移行することは、避けられない困難と不公平を生むだろう。
もしも、まだ、現状そのものが危険な選択肢でなかったとしたら、その困難と不公平は、到底、受け入れ難いものであろう。
しかし、持続可能な社会に移行することこそ、もはや私たちは、避けられないことである、と、私は、思う。

*見出し画像はそのとき興味が再燃した手元にある本か、そのとき思い出したかつて撮った景色などで手元にあるスマホの写真などです(→毎回スマホでしか描いていないので......。)

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
我が国の総理の言う「持続可能」の意味は解りませんが(→あと、「総理の言う」成長と分配も定義からよく分からないままです......。)、「持続可能」は自分なりにも考えてみているテーマです。
うーん。
でも、本当に今の我が国の総理の経済政策を聞くと理解が出来なくて、置いてけぼりにされた気分と劣等生の哀しみを同時に味わうのです......^_^;
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。


人体の臓器が単体で機能しないように、人や国家も単体では機能しない-「持続可能な社会」を考える②-

2023-11-14 06:42:28 | 日記
「汝自らを知れ」
(デルフォイの神託)

資本主義の良い面は、
市場の不均衡が税金や助成金、規制によってそれなりに容易に是正できるころである。
一方、悪い側面は、税金、助成金、規制条項に関連した不正が簡単に行われることであり、
優遇されている者はさらに優遇され、不利な立場にある者は、さらに不利になる。*1

私たちの税金や規制の規定の多くは、
産業界などのロビイストによって起草されていることもあり、
それが公共の利益や将来の世代を犠牲にして、
産業界の短期的利益を重視するものになっていることは、今さら驚くにはあたらないだろう。(→と描いていながら私は、心ならずも毎回驚いてしまうのだが......。)*2

さらに、残念なことに、
私たちの周りにある経済政策は、すべて、
致命的欠陥のある正反対の思想に基づいている。
まず、
絶え間ない経済成長は、国が生き残るために本来よいことであるだけではなく、基本的に必要不可欠である、という想定から始まる。
だから、
経済成長が妨げれれば、「景気後退」、「不景気」などとなり、人々にもっと金を使わせ消費させるための苦肉の財政・金融政策によって景気を「好転」させる。
その結果、歪んだ、かつ不均衡な事象が生じる。
GDPの内70%は結句私たちの役には立たない製品に対する個人消費に由来しているという試算がある一方で、もっと効率的で持続可能な社会につながるインフラプロジェクトや研究、人材育成のための支出はどう見ても少なすぎる、
という事象もその一例である。*3

ところで、
人間の体が健康に機能しているのは、あらゆる細胞がその役割をわきまえ、他のあらゆる細胞と十分協力し合っているからである。
ある臓器の細胞が他の細胞を犠牲にして自分勝手に増殖したら、それは、がん細胞と呼ばれるものとなる。

確かに、人間の内臓同士が日々協力し合うことには期待できても、なかなか、異なる人間同士が完全に協力し合うことは、たとえ、近しい関係にあったとしても、期待は出来ないであろう。
人間の個体内で出来ていることが、人間の個体同士になると出来なくなることはなんとも哀しいことである。

しかし、人間を制御するルールは、多少欠陥が在っても人間が作れるはずだし、欠陥はみつかる度に、できるだけはやく直してゆけばよいのだ、と、私は思う。

さて、前半に述べた問題たち(*1、*2、*3)は、実は、簡単な調整で、正しい方向に修正できる可能性がある。
例えば、
(*1、*2に対しては、)企業に対する税金は、現在の収入だけではなく、企業の活動によって犠牲になった将来の利益である直接的機会費用にも(炭素税のように)課し、化石燃料や農業関連支援に対する助成金は、クリーンで持続可能なエネルギーや食品を製造出来る競合企業に向けるという調整がある。

また、(*2と*3に対して)
廃棄物の削減、インフラの強化、最も持続性のある社会的利益の創出のために有用なレベルの効率を生み出す技術に対して減税を行うという調整も有用であろう。
さらに、(*3に対して)
常に交換が必要な使い捨てのゴミではなく、長持ちする質の高い製品を作る技術に報償を与えることで、買い換えを促すだけのモデルチェンジを終わらせる調整など私たちの意識さえ変わってゆけば近い将来に達成するかもしれない。

私たちの経済はどうやったって、健全さを保つためには、短期の消費者購買に依存するのではなく、長期の産業投資に頼る必要があることは、明白である。

短期的、否、短絡的な方法は、解決したように「見える」だけのことの方が多い。

歴史上、成功を収めた複雑な社会はすべて、
最終的にその社会が必要とする、またはその社会が維持できそうな量以上のものを消費したあげく、資源を使い果たして崩壊してきた。
文明が消滅する直前に、生産量がピークに達することは、考古学で常に明らかにされている。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
財務副大臣がやっと辞めましたが、「税の週間」に当たってしまったことは悲しいなあ、と思いながら描いていたら、話と怒りの範囲が拡張し過ぎたような......読んでくださりありがとうございます。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。

ケインズとマルクーゼが予測できていなかったこと-「持続可能な社会」を考える①-

2023-11-13 06:07:40 | 日記
「天体の運動なら計算できるが、
群衆の狂気は計算できない。」
(アイザック・ニュートン)

1930年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、

「人類に必要とされる労働時間はまもなく週に15時間だけとなり、
それにより人類は自らの関心を深めるための余暇の時間が増える」
と、予測した。

確かに、それ以前の50年の間に、急速なテクノロジーの進歩と週労働時間の削減の両方が実現したことを考えると、理にかなった予測だった。

また、資本主義を激しく批判していた哲学者のヘルベルト・マルクーゼは、短縮し続ける週労働時間を道徳的観点からみていた。
つまり、短縮し続ける労働時間は浅はかな大量消費主義の「一次元的社会」から人類を守る唯一の方法だとマルクーゼは考えていたのである。
マルクーゼは
「労働時間を減らすことは、自由を実現するためにまず必要となる条件である」
と述べている。

ケインズもマルクーゼも極めて賢明な人物であったが、
2人とも、テクノロジーが余暇に与える影響に関しては、ほぼ予測できていなかったことが、現時点では、)明らかになっている。

なぜなら、
歴史のさまざまな段階において、テクノロジー革命が起きるごとに、
人々はその革命が起きる前より忙しく働くようになった。
それは、常に生産性の向上によってさらに多くの産物が作られ、
さらに多くの人手が必要とされたために、
余暇の時間が増えなかった事実が在るからである。

例えば、農業革命が起きる前の狩猟採集民には、革命後の農民よりも余暇の時間が在った。
また、産業革命が起きる前の農民には、工場労働者よりも余暇の時間があった。
さらに、情報革命が起きる前の工場労働者には、コンピューターを操作する人よりも余暇と呼べる時間が在った。

(→どんなにハイテクなオフィスでも、スマートフォンとコンピュータで、1日24時間365日対応を期待されるオフィスに縛られることに皆が皆、喜んで働くとは思えない。
橋本五郎さんが、テレビ番組で、デジタル田園都市国家構想の話題の際、
「デジタルを活用して、田舎で短時間で仕事をして、夜は仕事終わりに縁側で日本人らしく鈴虫の音なんか聴きながらのんびりするのか、と僕は、はじめ聞いたとき思った。
でも、フタを開けたら、どこに行ってもスマホに縛られているひとばかりじゃないか!」と仰っていたのが印象的だった。)

テクノロジーの進化によって労働者は、
さらに奴隷化するか、テクノロジーにまるごと取って代わられるかになった。

結局、今、私たちは、
現代のテクノロジーがもたらしたとてつもなく高い効率によって、
1.ますます多くの物を生産する

2.労働時間が減る

3.失業者がますます増えるという
シンプルな3つの選択肢のうち、どれをどのようにコントロールするのか迫られていると言っても良いだろう。

持続可能な経済の重要な成果といえば、誰もが労働時間が減少するものの、誰でも何らかの仕事があるという状況であるのは、間違いない。
私たちは、ケインズやマクルーゼが思い描いたようにテクノロジーを活用する必要がある。

私たちは、物質的には豊かになり続けることではなく、時間、知恵、幸福、人間関係でよら豊かになれるようテクノロジーを活用すべきであろう。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
昨日の夜、過去の想い出の埃を一部だけでも、と、払うように、リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」の古本を注文しました。
私の読書履歴は好きだったそれらの本や三島をを大学1年生のときあたりに、うつで読めなくなってからうつが深刻化していくにつれて一時止まりました。
難治性うつ病と診断されたときより、処方箋の断薬・減薬による離脱症状の方がつらかったのですが、今は治まりつつあります。
また向精神病薬の副作用で、脚が悪くなるほど急激に太ったときからも、脚も体重も元に近いカタチに戻りつつあります。
しかし、気が付いたら30代過ぎになっていて、もう着れないだろう20代向けの可愛い服を見たりしたときや、失ったものたちを数えるとき、やはり、哀しくなります。
ただ、「(いろいろな局面で)自分と同じ思いをするのは私で最後がいい」そして「病や後遺症と生きながら、考えたことを描くことで表していきたい」と思っています。
何だか本を注文しただけで、語りすぎちゃいました。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。