おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

隣人のお姉さんと復興

2023-11-19 09:50:27 | 日記
(福島について)
「でも」、も、「だって」

もない。

「いつか」、なんか、ない。

ことばが踊るだけで、実行もしてないだろ。

あの原発がある限り、復興なんてありません。

ALPSをみてみなさい。

復校はいま、始まったばかり、

......。

これが当事者の意見。

樂羊の方が、なぜかしら、なせだろう-ある恩師の着火点より -

2023-11-18 08:04:26 | 日記
電話で、恩師に
たまたま、君が朗読していた
「七歩の詩」が
興味深い、と、言われて考えた。

「七歩詩」、弟の哀しさを曹植(192~232?)
が、兄の曹丕(魏の文王)に文武などの才能を妬まれ、困った話を詩にしたらしい。

兄「お前が、7歩歩くうちに詩を作れ!作れたら死罪にしないぞ!!」

弟「そっ、そ、そんなあぁ--。」

たぶん私が弟なら、ゆっくりムダな時間稼ぎをするところだが、
火事場の馬鹿力なのか
曹植(→曹操の正嫡の三男というややこしい位置)が幼い頃より詩など数十万言を諳んじた結句なのか。

兄「......。」
弟「豆を煮て濃いスープを作る

そんなとき豆で作った調味料を濾こして味を調える

豆がらは釜の下で燃え

豆は釜の中で泣く

豆も豆がらも(同じ兄弟なのに)
同じ根から育ったものなのに

豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか
(→僕はわからないぞ、なんてこった兄さん!!)。
と、原文では、
「煮豆持作羹
漉鼓以為汁
萁在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急」

しかしなあ、樂羊の方が......。
......。こんな、怖いような、微笑ましいような話より怖い話が、漢文にはざらにある。
ただ、
やり過ぎは誰でも怖い。

樂羊は、
自分の子の羹を飲んだ。
功績を挙げたが、
人の命を軽んじているのか?
と、
君主に疑われた。

孟孫は
鹿の子供を放したため、一度は処分されたが、
情愛深いことを見込まれて主は子供の傅役にした。

七歩の詩で面白がって下さった恩師に感謝するとともに、
Amazon経由のある古書店の間のAmazonの対応が揺らぎすぎて不安だ。
私はただ、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」が欲しいだけなのに。

Re:「真実が靴を磨く間に嘘が世界中を駆け巡る」世界のなかで-分断の時代に考える⑥-

2023-11-17 21:47:00 | 日記
今は、
「ゴドウィンの法則」
と名づけられ、そう呼ばれているようである。

1950年代に、
レオ・シュトラウスが
「ヒトラー論証」と呼び揶揄した現象は、インターネットの時代に「ゴドウィンの法則」と名づけられた。

「ゴドウィンの法則」
≒「オンライン上の議論が、
そのテーマや対象範囲にかかわらず長引くにつれて、
ヒトラーやナチスが引き合いに出される確立は1に近づいてゆく」である。

時代によって名前は変わるが、本質は変わらないようだ。

では、議論で引き合いに出すのには、安っぽい常套手段で禁じ手とされる、ヒトラーについて今回は、少し考察してみようと思う。

ヒトラーは、国民による一般投票で勝ったことがない。
最も良かったときでも、44%の得票率である。

そんなヒトラーが、単に憲法の形式主義を利用するだけで、彼の権力に対する憲法上の制約を全て無効にするという破壊行為を起こしてしまった。

着目すべきは、
この破壊行為は見かけ上が無害を装いながらも、突如として起きたことである。
さらに、着目すべきは、
1933年のドイツ国会議事堂放火事件という1件のテロ事件が、

ヒトラーのショック・ドクトリン的な手法をゆるし、
ヒトラーによる独裁政治をゆるし、
ヒトラーのための大義名分をゆるしてしまった事実である。

そして、1933年に制定されたワイマール憲法の修正事項である「全権委任法(機能付与法)」によりヒトラーは、議会や司法の承認なしに、法を制定し、公民権を廃止し、簡単に反対勢力を潰すことができるようになった。

しかし、ヒトラーのみの力でこのような現象が起きたわけではないであろう。
ヒトラーを生み出した社会にも病理はあるはずだ、と私は、思う。

歴史にifは無いというが、ヒトラーを選ばない社会は存在し得なかった、と言えるだろうか?

確かに、その時代の真っただ中に生きている人間には、今後の歴史の展開など正確にはわからない。

カオス理論よろしく、些細に思える出来事が、驚くほど大きな現象をおよぼすことだってある。

よく、ヒトラーが芸術学校で評価されていたら、世の中は違っていただろう、と私は空想する。
クレオパトラの鼻がもう少し低かった場合の世界を考えることと同様に無意味だとはわかっていても、である。

ヒトラーが、市民の不安や怒り、そして敵意を利用した理由のひとつは、
ヒトラー自身が、自分が軽蔑され、不当に扱われていると感じ、多くの恨みを抱えていたからだと推察する。

やがて、ヒトラーは、
「真実は変えることが可能なもの、大胆(かつあからさまな)嘘は効果的な武器、そして道徳は余計なもの」だ
と、見做した、見做し続けた。

その当時の社会もまた、その流れを断ち切ることは出来なかった。

その歴史は人類の記憶に、もう確りと刻まれている。

歴史はそのまま繰り返さずに、せめて、韻を踏むだけにしなければならない、と思う。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日は少し長文になってしまいました。
読んでくださり感謝です。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。

*前にも描きましたが、見出し画像は、最近読んだ、読み直した、読み直そうとしている本の表紙などにしていることがよくあります。木村元さんのお父さんの木村敏さんの御本にも大学院時代は助けられました。

Re:定義の難しさ-WHOの定義に仰け反る-

2023-11-17 21:37:00 | 日記
(投稿しようとしたら全部が消えてしまい。今6:40から描いています。覚えていることをマッハで描きます。)

前回、「正常」と「異常」
について明瞭な定義ができない、と、描いたので、

「健康」と「病気」ついてWHO(世界保健機関)の定義を今回は見てみようと思う。

世界保健機関憲章前文

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう」

(Official Records of the World Health Organization,no.2,p.100)

1948年以来変わらない定義かと思うとぞっとすることを禁じ得ない。

この定義の下で、誰が堂々と「健康」であるといえるのだろうか。

多様な文化や風土、それに基づく習慣に左右される中で、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、「すべて」が満たされた状態など、どのように定義するのであろうか。

しかも、時代や時流、それに基づく価値観の変化(変遷)もありながら1948年4月7日以来変わっていないというWHOのこの定義に仰け反ってしまった。

確かに、現在、健康診断などであるような、特定の病に対する予防手段として、血圧、血糖値、骨密度などの連続性に線を引き、いわゆる健康の維持に役立てている方法を採っている。

しかし、私たちが生きているこの世界において、問題を整理し、解決に役立つような、「普遍的」で「超越的」定義など存在し得ないと私は、思う。

ただ、この定義が出来ない曖昧さに乗じて、
「おおむね健康」を「いくらか病気」
とすり替えるようにして
病気の領域を広げるような
製薬業界のビジネスモデル
同様な手法を用いて対象者を増やすことにより購買層を増やそうとする、曖昧さ利用のことばによるマーケティング

そしてその線上にある
診断インフレ
について次回以降考えていきたい。

ここまで読んでくださりありがとうございます。
いきなり全ての文章が消え、真っ青でした。必死に思い出しながらスマホに向かいましたが、やはり、抜けているところも多々ありますが、次回以降にも繋げて頑張りますので、またよろしくお願い致します。
では、また、次回。

Re:シリーズ 悪人≠病人-診断インフレに揺れる精神医学と司法の境界線-

2023-11-17 15:19:00 | 日記
診断インフレは、
精神医学と司法の境界線を
も脅かしていることに、
はたして、私たちは、どこまで、気付いているであろうか?

1881年

ジェームズ・ガーフィールド大統領暗殺事件の裁判で、

「愚か者として釈放されるよりは、
人間として絞首刑にされるほうがましだ」

とチャールズ・ギトーは、
陪審員たちに叫んだ。

ギトーは拒否していたが、
弁護団は「精神異常」
を主張しようとしていた。

ギトーを正当化するつもりは全くないが、

彼は、
「精神疾患患者」として刑を減じられる
(→「病人」として減刑される、弁護団からすれば「病人」に仕立て上げて減刑を勝ち取る)
よりも、

自分の主張の信憑性がある
「犯罪者」として
有罪の宣告
(→「悪人」としてそのまま裁きを受けること)
を選んだ。

この裁判でさらに特筆すべきは、
多数の医師が、
弁護側および検察側の証人として証言し、
今日に至るまで引き継がれる
「病人」と「悪人」に関して
精神医学と司法(≒法律)の境界線が揺れること
の先例を作り上げたことである。

このような論争(の延長線上の論争)は、現在の日本にも存在するが、
解は出ていない。

さらに拡張すれば

米国のセオドア・カジンスキー(いわゆるユナボマー)や
ノルウェーの大量殺人犯アネンシュ・プライビクのような政治的テロリストは、
政治犯とみなされるべきなのか、
それとも精神疾患患者とみなされるべきなのか、

やはり解は出たことがない。

追記するなら、メディアが
「ほんとうに、真摯に、継続して」取り上げるべきは、
被害者が著名人か、でもなく、加害者の背景でもなくて、
「その後の裁判などの経過と結果」
ではないだろうか。

そもそも
ギトーが正気を喪っているるとみなす医師たちと、
心得違いをしているが正気の犯罪者であるとする医師たちとの狭間で、
「正常」と「異常」の境界線までが揺れはしなかっただろうか?

「そもそも正常も異常も定義されていない」こと*1

を私たちは認識すべきである、のにもかかわらず。

ある事件の犯人を
「病人」とみなすか
「悪人」とみなすかは、

「医学」ではなく、
「社会」が決めること
忘れてはならない、と、私は思う。

法廷での診断インフレは
押さえ込むべきだ。

ここまで読んでくださりありがとうございます。
*1 論拠や思うことなど詳しくは過去記事で何度か描いています。よかったらご覧下さい。
今日も頑張りすぎず頑張りたいですね。
では、また、次回。