なぜ、吉本隆明も柄谷行人も、そして小林秀雄もマルクスを問題にするのであろうか。
そして、彼らのマルクス論は、なぜマルクス主義者やマルクス研究家のそれと異なっているのだろうか。
大正末期から昭和初期にかけての、マルクス主義とプロレタリア文学の登場に、ほとんどの文学者は冷静な対応ができなかったようである。
伊藤整は、戦後になってから、このような時代を『わが文学生活』のなかで、
「私が散文を書き出した頃から、マルキシズムが文学の世界を根本的に揺すぶっていた。
この実践的な論理が、芸術である文芸の性格を変更するという怖ろしい勢いは抵抗しがたいものに思われた」
と回想している。
おそらく、このような感想は伊藤整ひとりものではないだろう。
大正末期から昭和初期にかけて、マルクス主義の影響は、単なる次元を越えて、文学者たちの存在自体を揺すぶるような、丸山真男のことばを借りれば、
「文学の世界をおそった『台風』」となっていたのである。
小林秀雄の初期の批評には、「マルクスの影」が極めて色濃く映し出されている。
小林秀雄は、昭和4年に、雑誌「改造」の懸賞文芸批評の二席入選作「様々な意匠」で文壇デビューした。
そのときの、第一席入選作は、のちに日本共産党の委員長や議長などとなる宮本顕治の芥川龍之介論「敗北の文学」であった事実からも、小林秀雄のデビュー当時の文壇状況や社会状況が推察できよう。
小林秀雄の「様々なる意匠」の中心的テーマは、当時隆盛を極めていたマルクス主義、あるいはプロレタリア文学への批判であり、小林が、「様々な意匠」に続けて、「文藝春秋」に連載した文芸時評「アシルと亀の子」で問題にしていたのも、専らマルクス主義でありプロレタリア文学であった。
小林は、マルクス主義やプロレタリア文学を批判し、否定しようとしたのであるが、小林が絶えずマルクス主義の動向に、鋭敏に反応し続けなければならなかったという歴史的事実は、極めて重要であろう。
言ってしまえば、小林秀雄は、マルクス主義との批判、対決を通じて、「文芸批評」を確立していったのである。
マルクス、ないしマルクス主義の隆盛という時代状況がなければ、おそらく「批評家小林秀雄の誕生」という近代文学史上の出来事は、もっと異なったものになってしまっていたであろう。
小林秀雄により、「文芸批評」が確立され、「文芸評論家」という新しい文学集団が誕生したのは、マルクス主義という、かつて経験したことのない、原理的、体系的、実践的な思考体系に対する1つの対抗手段としてであったのかもしれない。
言い換えれば、マルクス主義の出現によってはじめて、近代日本の文学者たちも、原理的に思考することを余儀なくされたのかもしれないのである。
マルクス主義は、その思想的内容においてのみ衝撃的であったのではなく、むしろ、マルクス主義が持ち込んだ「原理でも思考」という側面がより衝撃的であったのではないだろうか。
小林の、ものごとを原理的に問う思考には、マルクス主義から受けた極めて深い影響を見ることが出来るように思う。
小林秀雄は、マルクス主義という、原理的、体系的、実践的な思考と対決するために、原理的、体系的、実践的な思考を展開せざるを得なかったのであろう。
そして、小林秀雄は、マルクス主義という思想と対決するために「芸術派」の仮面をも、必要としたのかもしれない。
吉本隆明や柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論に見出したものは、イデオロギーや政治戦略に振り回されない、いわゆる、原理思想としてのマルクスであった。
吉本も柄谷も、「文芸評論家」というより「思想家」というべき位置にいるが、それは小林秀雄が、マルクス主義との対決を通じて確立した存在形式であり、吉本も柄谷もその存在の仕方においては、小林の影響下にあると言えるだろう。
小林秀雄自身、マルクス主義が果たした役割について、『文学界の混乱』のなかで、
「私達は今日に至るまで、批判の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。
こういう状態であった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。
言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである」
と述べた上で、
「これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。
てんで用意というものがなかったのだ。
当然その影響は、その実績より大きかった。
そしてこの誇張された反響によって、この方法を導入した人達も、これを受け取った人達も等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中になかったということを忘れ了った。
これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特な事情である」
と述べている。
この回想から、小林秀雄が言わんとすることは、マルクス主義という原理的思想の導入によってはじめて、日本の批評家たちの間にも原理的な思考への自覚が生まれたということではないだろうか。
このように、マルクス主義の隆盛という時代状況のなかで、「批評家小林秀雄」もまた誕生したのである。
「批評家小林秀雄の誕生」という問題は、江藤淳が『小林秀雄』のなかで言うように
「人はなぜ批評家になるのか」という問題であり、小林秀雄自身にとっての「生き方」の問題であったといえるだろう。
江藤淳は、『小林秀雄』の冒頭で、
「人は詩人や小説家になることが出来る。
だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか」
と述べた上で、
「小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。
しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。
ここで『自覚的』というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である」
と述べている。
また、丸山真男は、『日本の思想』なかで、
「日本では『自由主義者はマルクス主義』によってはじめて作られたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な問題である」
と述べている。
無論これは、マルクス主義の影響というような次元の問題ではなく、マルクス主義という思想体系が、一体どのような思想体系であったのかという問題に関わっているのであろう。
冒頭で、大正末期から昭和初期のマルクス主義の登場に対する文学者の反応として、伊藤整の回想を挙げたが、
マルクス主義が「文学の世界をおそった『台風』」となり得たのは、
小林秀雄が指摘するように、マルクス主義が「科学的理論として」理解されたからであり、伊藤整が指摘したように「実践的な論理として」解釈されたからではないだろうか。
つまり、理論的には「科学」を称し、生活の次元の実践倫理としては「革命」を主張することによって、極めて過激な原理思想として登場してきたものが、マルクス主義であったのではないだろうか。
マルクス主義という思想体系は、理論的次元で受け止めようとすれば、あまりにも現実的な実践を伴っており、また、現実的な実践としてのみ受け止めようとするには、あまりにも論理的な体型を備えていたのである。
ミシェル・フーコーは、吉本隆明との対談『世界認識の方法』のなかで、
「マルクス主義は、かつてのキリスト教に代わって、国家を基礎づける哲学となった」
と語っている。
いずれにせよ、マルクス主義は、避けて通ることの出来ない重要な問題になったのである。
やはり、「批評家小林秀雄の誕生」も、マルクス主義という思想との接触によって、はじめて可能になったということができるように思われる。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
少しずつ涼しくなってきましたね😊
やっと秋が来たようにおもいます😌
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。