二人っきりのきょうだいだったのに
弟とひとつ屋根の下で暮らした年月は
そう長くなかった。
宮津から東京へたった一人で出てきたとき、
私は14才だった。
ものごころつかないうちに別れた母と、
母の再婚相手、そして二人の間に生まれた
私より7才下の弟。
母とはそれまでに一、二度、顔をあわせてはいたが
ろくに話をしたわけではなく、生みの親だというのに
初対面同様だった。
義父と弟はほんとうの初対面。
東京駅へ迎えに来ていた三人に、私は行儀良く
頭を下げ、「洋子と申します。よろしくお願いいたします」
と、挨拶したものだ。
弟は5月人形みたいな子で、少し吊り上がり気味の
大きな目が特徴だった。
私が来るまで、親からも親戚からも可愛がられ、
甘やかされて育った一人っ子だった。
母も義父も、私には決してくれなかった愛を
弟には惜しげもなくふりそそいでいた。
家を出るまでの六年間、私はずっと
居心地が悪かった。
自分のことを、仲の良い三人家族の
中に割り込んでしまった
邪魔者のように感じていた。
弟との付き合いは、大人になってから希薄だったかもしれない。
仲が悪かったわけではない。ただ、気が合う方ではないと
私は思っていた。
でも、いまになって思う。
私の方が彼に対して、壁を作っていたのだ。
元来、弟は社交的で親切だ。
もしも私が、もっとフランクに近づいていき、
なにかにつけ相談したりしていたら、きょうだいらしい
きょうだいになっていたかもしれない。
けれども私は、弟に対してずうっと、ある種の
こだわりを持っていた。どういうこだわりなのか、
的確な言葉が見つからない。
私が求めてやまなかったものを、あたりまえのように
得ていたことへの、嫉妬だったのかもしれない。
この人にだけは弱みを見せたくない。
どんなに困っても、この人にだけは頼りたくない。
ひそかに、そんな意地を持っていた。
弟は気づかなかったと思う。
たんに、ちょっとひねたところのある姉、くらいに
感じていただろう。
そのくせ、私が死んだら、家の片付けとか
もろもろの後始末は弟がやってくれるだろう、と
疑いもなく思っていた。
弟は面倒見の良い人だから。
私も勝手な人間だと、つくづく思う。
昨年の夏、弟から「肺癌が発覚した」
という電話があった。
「だから、アネキになにかあっても、悪いけど
あとの面倒はみられないよ」
それから、がん研有明病院に入院した弟を
何度も見舞いに行った。
治療を初めてから、彼はみるみる痩せていき
1月の22日、ついに亡くなった。
最後は緩和病棟だった。
生きるために胃ろうを着けた時、
私の顔を見るなり、弟は涙を溢れさせた。
「こんなの着けたために、死ぬに死ねなくなって
周りのみんなに迷惑をかけると思うと
情けなくて……」
子どもの頃は、思うようにならないとすぐ
「ワーッ」と泣く子だったが、大人になってから
弟のこんな弱い姿を見るのは初めてだった。
私にそれを見せてくれた、と思った瞬間、
自分の中にあった壁が崩れた。
私も弟に、自分の弱さを見せてもよかったのだ。
なのに長いこと意地を張って、強い部分ばかり
見せてきた。そんな必要はなかったのに。
一緒になって涙をこぼしながら、
心の中で一生懸命、謝っていた。
いまごろ言ってごめんなさい。
あなたは私の、大事な可愛い弟です。
弱い、情けない私を、どうか見守っていてください。

弟とひとつ屋根の下で暮らした年月は
そう長くなかった。
宮津から東京へたった一人で出てきたとき、
私は14才だった。
ものごころつかないうちに別れた母と、
母の再婚相手、そして二人の間に生まれた
私より7才下の弟。
母とはそれまでに一、二度、顔をあわせてはいたが
ろくに話をしたわけではなく、生みの親だというのに
初対面同様だった。
義父と弟はほんとうの初対面。
東京駅へ迎えに来ていた三人に、私は行儀良く
頭を下げ、「洋子と申します。よろしくお願いいたします」
と、挨拶したものだ。
弟は5月人形みたいな子で、少し吊り上がり気味の
大きな目が特徴だった。
私が来るまで、親からも親戚からも可愛がられ、
甘やかされて育った一人っ子だった。
母も義父も、私には決してくれなかった愛を
弟には惜しげもなくふりそそいでいた。
家を出るまでの六年間、私はずっと
居心地が悪かった。
自分のことを、仲の良い三人家族の
中に割り込んでしまった
邪魔者のように感じていた。
弟との付き合いは、大人になってから希薄だったかもしれない。
仲が悪かったわけではない。ただ、気が合う方ではないと
私は思っていた。
でも、いまになって思う。
私の方が彼に対して、壁を作っていたのだ。
元来、弟は社交的で親切だ。
もしも私が、もっとフランクに近づいていき、
なにかにつけ相談したりしていたら、きょうだいらしい
きょうだいになっていたかもしれない。
けれども私は、弟に対してずうっと、ある種の
こだわりを持っていた。どういうこだわりなのか、
的確な言葉が見つからない。
私が求めてやまなかったものを、あたりまえのように
得ていたことへの、嫉妬だったのかもしれない。
この人にだけは弱みを見せたくない。
どんなに困っても、この人にだけは頼りたくない。
ひそかに、そんな意地を持っていた。
弟は気づかなかったと思う。
たんに、ちょっとひねたところのある姉、くらいに
感じていただろう。
そのくせ、私が死んだら、家の片付けとか
もろもろの後始末は弟がやってくれるだろう、と
疑いもなく思っていた。
弟は面倒見の良い人だから。
私も勝手な人間だと、つくづく思う。
昨年の夏、弟から「肺癌が発覚した」
という電話があった。
「だから、アネキになにかあっても、悪いけど
あとの面倒はみられないよ」
それから、がん研有明病院に入院した弟を
何度も見舞いに行った。
治療を初めてから、彼はみるみる痩せていき
1月の22日、ついに亡くなった。
最後は緩和病棟だった。
生きるために胃ろうを着けた時、
私の顔を見るなり、弟は涙を溢れさせた。
「こんなの着けたために、死ぬに死ねなくなって
周りのみんなに迷惑をかけると思うと
情けなくて……」
子どもの頃は、思うようにならないとすぐ
「ワーッ」と泣く子だったが、大人になってから
弟のこんな弱い姿を見るのは初めてだった。
私にそれを見せてくれた、と思った瞬間、
自分の中にあった壁が崩れた。
私も弟に、自分の弱さを見せてもよかったのだ。
なのに長いこと意地を張って、強い部分ばかり
見せてきた。そんな必要はなかったのに。
一緒になって涙をこぼしながら、
心の中で一生懸命、謝っていた。
いまごろ言ってごめんなさい。
あなたは私の、大事な可愛い弟です。
弱い、情けない私を、どうか見守っていてください。
