日本を代表する名監督といえば、黒澤明しか知らない私は、恥ずかしながらアッバス・キアロスタミ監督や、ジャン=リュック・ゴダール監督の私淑をもって、はじめて小津安二郎の存在を知った。
その小津作品ではじめて観たのが、1949年作の「晩春」である。時あたかも、昭和24年、終戦から四年経つ日本には荒廃の気配はなく、本作に描かれる家族も海沿いの街に住む、中流以上の家庭である。嫁入り前の父と娘の気持ちのやりとりをほのぼのと描いたホームドラマなのだが、不思議と退屈しないのは随所にしかけられた小津マジックともいうべき演出の妙であろうか。
北鎌倉で経済学者の父、曾宮周吉とともに暮らす紀子は、二十七歳。
父の書生をしている服部とは気があう仲で、周囲もお似合いと思っていたが、あいにく服部にはすでに婚約者がいた。
出戻りの親友アヤともども独身ライフを謳歌している紀子だったが、おせっかいな叔母の肝煎りで急に縁談話が持ち上がる。
父の身の回りの世話を理由に渋る紀子だったが、なんとその父から再婚相手がいると打ち明けられて動揺してしまう。
最初は紀子の気持ちの預け先が服部にあるのかと思っていたら大違い。あけすけにいえば、ファザーコンプレックスの塊で、細君を亡くした夫は操を立てるものだとばかり思っている紀子は、後妻をもらったばかりの小野寺の小父まで非難していたほど。しかし、父は再婚を機に紀子の居場所をなくそうとしている。
最終的に父の説得もあって、嫁ぐ決心をする紀子。物語の前半晴れやかな顔つきをしていた彼女が、後半なんともいえない憂いおびた表情になっているのが、胸にじんわりと迫ってくる。特に能の鑑賞会で、父の再婚相手に対面した際の首うなだれて沈んだ面持ち。周囲が真剣に食い入るように表情ひとつ変えずにいるなかで、ひとりだけ顔色が青くなっていくさまは、能面の観衆のなかにひとりだけ生身の人間が放り込まれたよう。
しかし、終始一貫、わきまえ顔で娘の嫁入りを応援していた父がみせる、物語最後の背中のなんと寂しいことか。あの一瞬でみごとに父の本心が明かされているところがみごと。
「晩春」というタイトルからして当時としては晩婚にあたる娘に訪れた春のことかと思ったら、じつは父親にも訪れた春だったか、と驚くことこのうえないが、それにはからくりがあったりする。
狭い日本家屋で常に同じ場所にカメラが置かれてあるために、なんどもそこを行き来する役者の行動の違いが対比される。おもしろいのは、二階の藤の椅子とテーブルのある居間。縁談を勧める父を避ける娘の気持ちの向きを示したかのように、一対の椅子は背中をむけてしまう。
花嫁衣裳姿の紀子が最後の別れを父に述べる有名なシーンもその場所だが、向かって左背後にみえる本棚の本が黒いものに変わっているのも、花嫁の白装束を際立たせるためだろうか。
前半、登場人物を捉える目線がほぼ人物によって固定しているのもおもしろい。周吉は斜め左かもしくは横顔、紀子は向かって右側を向くように。小野寺の小父や叔母などは正面切って映されている。これらの人物が対談するときは、交互にカメラを切り替えているので、表情がよくわかる。
このまま父の側にいたいとすがりつこうとする娘を、優しく突き放した物言いをする父というひと悶着があったあとで、さりげなく若葉に萌える大木を見せるなど、感情のこじれを後に引きずらせないようにする演出もうまい。何げなく映ったワンカットすらなにか訴えるかのようにじっくりと出番を与えられているところで、単に物語の展開をスピード感で楽しむだけでない、深い見方を要求されていく。映像の叙情詩というにふさわしい名作である。
主演は笠智衆と原節子。
原節子は生涯独身を貫いた女優であるけれど、本作でもわかる限り、かなりの美貌の持ち主。和装した日本女性の嗜み深さがよくわかる場面もあるが、紀子と親友が会話してる部分は当時としてはかなり新進的な女性だったらしいことが伺える。
「結婚するのが幸せじゃない。幸せは夫婦になって、ふたりで新しく創りあげていくものだ」という父の言葉は名台詞。繰り返し観たい珠玉の邦画に違いない。
原作は広津和郎の小説『父と娘』
本作に続き原節子は、1951年の「麦秋」、53年の「東京物語」でおなじく紀子というヒロインで出演をしている。
(2010年1月7日)
晩春(1949) - goo 映画
その小津作品ではじめて観たのが、1949年作の「晩春」である。時あたかも、昭和24年、終戦から四年経つ日本には荒廃の気配はなく、本作に描かれる家族も海沿いの街に住む、中流以上の家庭である。嫁入り前の父と娘の気持ちのやりとりをほのぼのと描いたホームドラマなのだが、不思議と退屈しないのは随所にしかけられた小津マジックともいうべき演出の妙であろうか。
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北鎌倉で経済学者の父、曾宮周吉とともに暮らす紀子は、二十七歳。
父の書生をしている服部とは気があう仲で、周囲もお似合いと思っていたが、あいにく服部にはすでに婚約者がいた。
出戻りの親友アヤともども独身ライフを謳歌している紀子だったが、おせっかいな叔母の肝煎りで急に縁談話が持ち上がる。
父の身の回りの世話を理由に渋る紀子だったが、なんとその父から再婚相手がいると打ち明けられて動揺してしまう。
最初は紀子の気持ちの預け先が服部にあるのかと思っていたら大違い。あけすけにいえば、ファザーコンプレックスの塊で、細君を亡くした夫は操を立てるものだとばかり思っている紀子は、後妻をもらったばかりの小野寺の小父まで非難していたほど。しかし、父は再婚を機に紀子の居場所をなくそうとしている。
最終的に父の説得もあって、嫁ぐ決心をする紀子。物語の前半晴れやかな顔つきをしていた彼女が、後半なんともいえない憂いおびた表情になっているのが、胸にじんわりと迫ってくる。特に能の鑑賞会で、父の再婚相手に対面した際の首うなだれて沈んだ面持ち。周囲が真剣に食い入るように表情ひとつ変えずにいるなかで、ひとりだけ顔色が青くなっていくさまは、能面の観衆のなかにひとりだけ生身の人間が放り込まれたよう。
しかし、終始一貫、わきまえ顔で娘の嫁入りを応援していた父がみせる、物語最後の背中のなんと寂しいことか。あの一瞬でみごとに父の本心が明かされているところがみごと。
「晩春」というタイトルからして当時としては晩婚にあたる娘に訪れた春のことかと思ったら、じつは父親にも訪れた春だったか、と驚くことこのうえないが、それにはからくりがあったりする。
狭い日本家屋で常に同じ場所にカメラが置かれてあるために、なんどもそこを行き来する役者の行動の違いが対比される。おもしろいのは、二階の藤の椅子とテーブルのある居間。縁談を勧める父を避ける娘の気持ちの向きを示したかのように、一対の椅子は背中をむけてしまう。
花嫁衣裳姿の紀子が最後の別れを父に述べる有名なシーンもその場所だが、向かって左背後にみえる本棚の本が黒いものに変わっているのも、花嫁の白装束を際立たせるためだろうか。
前半、登場人物を捉える目線がほぼ人物によって固定しているのもおもしろい。周吉は斜め左かもしくは横顔、紀子は向かって右側を向くように。小野寺の小父や叔母などは正面切って映されている。これらの人物が対談するときは、交互にカメラを切り替えているので、表情がよくわかる。
このまま父の側にいたいとすがりつこうとする娘を、優しく突き放した物言いをする父というひと悶着があったあとで、さりげなく若葉に萌える大木を見せるなど、感情のこじれを後に引きずらせないようにする演出もうまい。何げなく映ったワンカットすらなにか訴えるかのようにじっくりと出番を与えられているところで、単に物語の展開をスピード感で楽しむだけでない、深い見方を要求されていく。映像の叙情詩というにふさわしい名作である。
主演は笠智衆と原節子。
原節子は生涯独身を貫いた女優であるけれど、本作でもわかる限り、かなりの美貌の持ち主。和装した日本女性の嗜み深さがよくわかる場面もあるが、紀子と親友が会話してる部分は当時としてはかなり新進的な女性だったらしいことが伺える。
「結婚するのが幸せじゃない。幸せは夫婦になって、ふたりで新しく創りあげていくものだ」という父の言葉は名台詞。繰り返し観たい珠玉の邦画に違いない。
原作は広津和郎の小説『父と娘』
本作に続き原節子は、1951年の「麦秋」、53年の「東京物語」でおなじく紀子というヒロインで出演をしている。
(2010年1月7日)
晩春(1949) - goo 映画
>何げなく映ったワンカットすらなにか訴えるかのようにじっくりと出番を与えられている・・・
小津監督は、場面展開に暗転などを使わずに何気ない無人の空ショットを入れて時間経過を表したり、段落を付けたりする名人で、時にその空ショットが登場人物の心理をも表すような深い印象を与えます。
「晩春」には、特にそういう心象ショットとも言うべき映像が多かったような気がします。
娘がそういう日を迎える頃には、また格別な思いで、この映画が見れるかも知れませんね。
交互に呼吸と視線を探るような会話のシーンは、すごく間の取り方がうまいと感じました。
>小津監督は、場面展開に暗転などを使わずに何気ない無人の空ショットを入れて時間経過を表したり、段落を付けたりする名人で、時にその空ショットが登場人物の心理をも表すような深い印象を与えます。
樹木のカットは、お寿司についてくるバランみたいなもんだと思いました。
一種の緩衝剤のように働くときもありますが、心理状態といえば「東京暮色」での踏切とギョロ目の眼鏡屋の看板のショットは、なんとも恐く今でも忘れられないインパクトがあります。
レタリングにこだわりがあるのか、やたらと特色のあるポスターや看板を映すことが多いのも、興味深いですね。
>娘がそういう日を迎える頃には、また格別な思いで、この映画が見れるかも知れませんね。
男親と女親ではやっぱり感覚が違うんでしょうね。
うちの父親は娘の花嫁衣装を見れなかったんですが、どうだったのかしらと想像を巡らしながら観てました。
コメントありがとうございました。