人類史上最初の賢人というべき哲学者ソクラテスは、当時の為政者に煙たがられ毒杯を受ける羽目になります。そのとき遺した言葉は──「悪法もまた法なり」。
ソクラテス自身は亡くなりましたが、彼の残した言葉はその後、多くの弟子に語り継がれ、今に至るまでの伝説となりました。
ソクラテスはなぜ甘んじて、不慮の死を、非業の最期を受け入れたのでしょうか。
多くの弟子たちがいた彼ならば、大塩平八郎みたいに、徒党を組んで時の政権に刃向かうことも可能だったはずです。
それは、「悪人を裁くのは個人ではなく法である」ということに気づいていたから。
何人も法の下に平等、たとえ死刑囚であったにしても、服役中は人間らしい生活が与えられます。勝手に処刑することなどできやしないのです。
今回の記事は、7月8日の安倍晋三元首相の暗殺事件を契機に書き起こしています。
この数日前、なぜか、拙ブログの安倍総理退任記事のアクセス数があがっており、なぜか不気味さを感じたのですが…。
安倍首相の実績をめぐっては、賛否両論あるでしょう。
森友学園問題などの不正はいまだ未解決、自殺者まで出たというのに。その一方、政策上ではアベノミクスにより賃金上昇や求人数も増え、円高状況も解消。消費税の増税はあったにせよ、恩恵を受けた方も多少なりともいたはず。私もアベノミクス時代に、やっと正社員に戻れました。小泉政権時代の派遣法解禁で非正規労働者が増えたのに比べたら、企業にベースアップを呼びかけたり、就職氷河期世代の救済策が施行されたりなどの、労働者にも光りがあてられたといえます。そのいっぽう、コロナ禍や五輪開催を巡ってはイザコザもありましたね。
安倍元首相の大きな功績としてあげられるのは、北朝鮮の拉致被害者の帰国交渉に貢献したことですね。野党や左翼系の識者およびその論客に感化されたブロガーさんなどは、さかんにアベ叩きを行っていましたが、なんでもかんでも、アベ憎しのオンパレードで芸がないなと思ったものです。目立つ人物の粗探しをネットでしている暇があったら、道路や公園の掃除でもして社会に役立つことをしたらいかがなのでしょうか。
自分の人生がうまく行かないのを、身近にいる人間、もしくは豊かそうで目立つ人物などにぶつけたい気持ちはよくわかります。
けれども、その「極悪人」だと考える誰かが死んでも、その意思は受け継がれ、組織は立て直され、資産は身内にだけばら撒かれるだけで、この世の中が変わるわけではありません。自分が一円たりとも得をするわけではない愚行を何故おこなうのか。幕末でさんざん要人の暗殺事件が起きたのに、けっきょく政府は存続し、法治国家はこれまで温存されてきたのです。正直、暗殺するならば現代のヒトラーともいうべきロシアのあの大統領だとも思うのですが。それか、ヤクザの親分とかを狙ってください。
自分の中にある悪意に人格を与えてしまうと、それが特定の人間になって、攻撃したくなるのです。
仮にその「敵」がどこかに消えてくれたり、失脚したとしても、飯はうまいかもしれませんが、自分の人生が肥え豊かになることは一切ありません。
自分が不遇だと感じたら、ネットで悪い情報ばかり集めて脳を退化させるのではなく。
図書館に出かけて読書したり、翠のある公園でも散歩して気を紛らわすことですね。令和の最初にも生じた通り魔事件もそうでしたが、誰かに憎悪をぶつけても自分の運気が落ちるだけ、ということを少なくとも理解しておくべきでしょう。
そして、犯人の属性について誇大解釈してありもしない差別デマをでっちあげ、この機会に自分がその立場にならない者(性別、年齢、国籍、信条、門地、職業などにおいて)を非難するのも、同罪でしょう。
こういう忌まわしい事件が起きると、かならずテロリストぶって模倣犯が出るのですが。
ネット上で叩かれている人物を制裁したとしても、今の世の中では英雄になんかなれっこありません。漫画か歴史ドラマのみ過ぎです。
たとえ、その人がまちがっていると思っても、私たち自身に誰かを裁く権利はありません。
裁きたいのなら、法に基づく手続きが必要で、それには自分の氏名住所を明らかにする、費用がかかる、などの痛みが伴います。匿名で安全地帯で誰かに石を投げることは、けっきょく自分を傷つけることになりかねないのです。私は、過去の口汚く書きなぐった日記を稀に読み返すたびに、いつもそう思うのです。
(2022/07/08)