「しかし、お試しになるにも程があります。この前のふたりの一件といい…」
「あれか? そら、私もあんなに効き目あると思わんかったな。凍らしたほうが、効果バツグンやなんて。シャマルも驚いとったで」
鉄火肌の大小コンビが争ったがために永久追放された八神家のメイン冷蔵庫のフリーザーには、冷凍処理された半透明の液体が眠っている。
哀れな実験台キャロに勧めたグラスに放り込まれていたのは、なんと、その氷片だった。シャマル医務官が発明した強制自白剤は常温では効能が薄いが、いったん氷点下まで凍結させたものを解凍させるにつれて放出した熱分が、体内の自律神経に過度の刺激をあたえる。常態では独特の酸味のある匂いを放つが、凍らせて香料のある液体に浮かべることで消えてしまう。
この薬剤は犯罪者の自白強要の道具として、ひそかに開発が進められてきた。脳の言語機能を活性化させる面を積極的に実用化すれば、認知症や自閉症患者の治療にも転用できるのではないか、と期待されている。
ついでに言っておくと、つい先日の高町家でのいざこざ(例の青いカレー事件)も、引き金を引いたのは一本の酒缶であった。フェイトが無造作に冷蔵庫から取り出した缶は、シャマル先生の栄養指導のもとにお勧めされたエナジードリンクであるはずだった。もちろん、はやての画策で事前に高町家に宅配されていたのである。
「アルコールを勧めたわけやないんやから、お咎めなしやね。融けてもうたら証拠隠滅やろ」
にやりと笑み浮かんだはやては、ものの数秒で、手にしたグラスを空にした。
空にした液体が、はやてに与えたのは、わずかな頬の火照りだけ。あいかわらず、主は酒に強い。ザフィーラの眉尻が下がる。
「はやてさんは、それ平気なの?」
「主はめったに酔わぬからな。免疫があるらしい」
ふしぎに目を丸くしたヴィヴィオに、ザフィーラが囁き声で言づけた。
晩酌を欠かさぬ日はないはやては、どんなに飲んでも嗜む程度の酔いしかない。さながら水を飲む魚のごとし。お酒どころか、この主、シャマルが開発した怪しい薬に惑わされたことはいっぺんだってないのだ。正確にいえば、他のメンツの影の努力によって、シャマルの投薬罪が未遂に終わっているからなのだが。
八神はやては、目を細めて、彼女が起こしたふたりのさざ波が落ち着きを取り戻すさまを、静かに見つめていた。
ヴィヴィオが指摘したように、あの兄妹のように仲睦まじいふたりが本気で仲違いするはずがない。
エリオとキャロはふたりきりにしておけば、塩が水に溶けるように、自然と仲直りしてしまうのだ。子どもは言葉が足りないのに、仲直りが思いのほか早い。齢十数年にしてあの関係修復力を、どうして千年も前から生きてきたであろう守護騎士たち、とくに烈火の将と鉄槌の騎士は身につけないものだろうか。一緒に暮らす年月が多いことは、互いに余計なしがらみを背負わせてくれる。八神はやてが知らない、守護騎士が主を知らないはぐれ騎士だった時代の、いざこざがあったろう。はやては時おり頭を悩ませていた。だからこそ、自白剤を用いてでも聞き出してみたかったのだが。
「あ、そーだ。ザフィーラ、きょう、人間モードで来てくれたってほんと? わたしも見たかったなぁ~」
「獣の成りをしては入れぬからな、仕方なく」
「え~? なに言うてんの、ザフィーラ。かなり乗り気やったやん。衣装合わせもはりきってたし」
「あれは試着してみたかっただけで。主はやてが褒めそやかすものだから、つい私は…」
「でも、けっこう似合っとったよ。また、どや?」
嘘おっしゃいますな。教室内での冷ややかなまなざしが痛いことと言ったら。
紳士らしく上等なスーツに身をくるんだザフィーラであったが、皮肉なことに、彼を一流の人間に扱う目的で与えられたその衣装のせいで、よけいに動物めいて見えたのだった。しいて言えば、サーカスで見せ物にされる芸仕込みの獣が、道化じみてめかしこんでいるかのように。
「今回でご勘弁を」
嘆願を洩らすザフィーラの肩甲骨のあたりを、はやてはぐりぐりと押した。犬の肩甲骨はすなわち前足の付け根だから、足を折りたくなる。スフィンクスのように座り込んで、動かない。
「残念だなぁ、ヴィヴィオも見たかったなぁ」
授業参観の最中は、もちろん、生徒たちは教師と黒板に顔を向けていなければならない。
しかし、ヴィヴィオは授業の後半あたりから、にわかに室内がざわつきはじめたのを、薄々感じていたようで。しかし、ヴィヴィオは動じなかった。自分が動揺したりしたら、きょう、来てもらった臨時パパたちに申し訳が立たない。
ひとりの少女がレポートを発表する、その背中をひっきりなしに似たような白づくめのスーツが代わりばんこに観察しあっていたなんて、本人は知る由もない。
しきりに悔しそうなそぶりをみせるヴィヴィオに、はやてがこっそり耳打ちした。
「じつはな、クロノくんが写真撮ってくれてるんよ。あとで見せたげるって」
「わ、ほんと?! はやてさん、ありがとー!」
ヴィヴィオが喜び勇んで、自分の広げた胸のなかに飛び込んできてくれる、とばかりに、はやては両手を開いて待ち構えていた。
なのにヴィヴィオときたら、隣のザフィーラの首ったけに抱きついていた。締めつけられた首がちくりと痛んで、ザフィーラが苦しげに、うぐぅ、と唸った。はやては八神家番犬の食事を今後さらに一箇月は残飯もしくはドッグフード漬けにしてやろうかと誓うのだった。
【第七部につづく】