食べものには3秒ルールというのがある。
床に落とした食品は、すぐに拾って食べれば、あるいは水で洗えば、いたって清潔だという思い込み。しかし、自分の肌の、しかも、そんな部分へうっかり転がったそれは食べてほしいとも、やめてほしいとも言いづらい。
どうしよう、どうしよう。わたし、どうしたらいいのかな?
日乃宮媛子は、懸命にその頭をめぐらせて、この切羽詰まった事態をどう切り抜けるべきか、考えあぐねていた。そして、夢中に考えるあまりに、彼女は放心してしまい、
「千華音ちゃん…」
とつぶやいた拍子に、すぐさま全身で危機を感じた。皇月家の御神巫女が胸をおしあて、体重をかけてくるのを。身動きがとれない…! しまった! いつのまにか、自由を封じられていたのだった。驚きに目を見開く。熱い息遣いが、耳もとに囁くように落ちる。怖い…でも、それよりも…。
媛子はその気持ちの震えのあまりに、たまさか目を閉じた。
胸の高鳴りだけが尽きぬ潮騒のごとくに響いてやまない。寝間着の袂を左右に開かれて、胸を半ばあらわにされる。千華音が見つめている。浴衣の下は上半身あらわで、うっかりと下着をつけていなかった。まるで、その夜、なにかを期待していたかのように。そしてまた、いっぽうで、媛子は千華音の高潔すぎた自制心に依存しすぎてもいた。狼や獅子をもふもふした獣のぬいぐるみのようなものと、女は甘く見てとることがある。これ以上、惹かれてはいけない、けれどあなたしか見えない、というどっちつかずでこころが跳ねまわる千華音をほくそ見て、油断していたのだった。
白い指先が媛子の胸をゆっくりとなぞる。媛子がびくついて、身をよじる。千華音がつまみあげたのは、チェリーだった。やはり拾ってしまった。しかも、それを媛子の唇へと押し当てる。目をしばたたかせると、千華音が目で訴える。食べろということらしい。
媛子が口に含もうとすると――それは、ひょい、と持ち上げられた。
そして、また落とされる。くわえようとしたら、また逃げる。さきほど、ふざけてやったことのお返しをされているのだ。ああ、千華音ちゃんのいじわる。しかも、こちらが身ぐるみ剥がされそうないきおいで。これは、お風呂で裸にして洗い上げようとしたことへの罰なのか。千華音の眼光が鋭さを帯びた。少々おいたが過ぎたらしい。貴女は所詮、私の獲物、ここで力関係を示しておかないと、という強がりなのか…。
媛子の目前で、チェリーがぶらさげられる。双子の実の軸のつなぎ目が、ぷち、と断ち切られる。片方が媛子の口へぽとりと落ちる。もう残りの粒は千華音が口へ放り込んだ。お互いに見合いっこしながら、ゆっくりと堪能するように咀嚼した。千華音の口で回転する軸。媛子の唇でくわえた軸。二つの軸が、剣を交えたごとくにそっと触れ合う。千華音がその二本とも、ひょいと抜いて捨てる。その果実の次は貴女、待っていてね――そんなふうに、月の御神巫女が、太陽の御神巫女を見下ろしている。チェリーなのに、種がない品種なのか吐き出さなくてもよかった。
食べ終わったはずなのに、千華音は依然として媛子のうえを動かなかった。
千華音のからだのほうが大きいし、細いながらもその膂力も強いのだからして、のしかかられれば、逃げようがない。身をひねろうとしたら、肩の真上に手のひらをつかれてしまった。動かないで、そのままで、という暗黙の色っぽい拘束。さきほど、この美しい黒髪の御神巫女は、首筋にいわくありげに実をすべらした。そして、いま、そこを甘く柔らかく滑っているのは、濡れた唇そのものだった。傷つけたいという意思など微塵もこもらない。媛子が首をすくめてしまう。
片頬を押さえられて、瞳の奥を見つめられる。
ずっと見続けていられる銀河を仰ぐような澄んだまなざしで。けれども、顎に添えられた指先が熱く。
ああ、どうしよう。そんな目で見られたら。きっと、千華音ちゃんは、わたしとキスがしたい…。けれど、そうしたら、わたしたち、儀式を前にどうなるのだろう。同じ湯を浴びて、同じ髪の香りをさせて、ひとつのものをわけあって食べただけの、そんなふたりが肌の隅々まで体熱を等しくするぐらいに溶けあってしまったとしたら、どうなるのだろう。きっと、儀式なんて行えなくなっちゃう。
媛子は両腕を上へとさしだす。千華音はその中に堕ちていく。
千華音の帯が外れて、裸になったその背中に媛子がおそるおそる手を回した。千華音は拒まなかった。いや、媛子が拒まなかったのだ。
口づけは受け入れてもいい。誘うふりをして、いっそのこと、千華音ちゃんのあの経穴を…。そうしたら、この窮地を切り抜けられるかもしれない。けれど、もうお別れなのだ。ふたりだけの、こんなにも甘やかで、大切で、いとおしくて、美しい、ひとときが。いま、ここで終わってしまう。
媛子の瞳がゆるゆると緩んでしまう。
その涙がじわりと滲みはじめたとき、千華音に胸を刺すような痛みがちくりと走った。唇は触れるか、触れないかのところでとまっていた。
媛子は額に柔らかいものが触れるのを感じた。
千華音が落とした軽いキスは、額に、頬に。そして唇は重ねなかった。左胸に手をかるく添えられて、人さし指を縦にして押し当てられる。声を出すな、という合図らしい。媛子は固く息をのんだ。千華音ちゃんは、もう、本気なんだ。わたし、もう待てない…!
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」