その時だった――床に転がっていた媛子のスマホが急に明るくなった。
着信音がみじかく鳴って、その画面に映し出されたのは…――だが、お取込み中のふたりは幸か不幸か、それを知らない。
やおら、媛子のうえにのしかかる豊かな胸の厚みが消えた。
千華音がゆっくりと身を起こし、はだけた浴衣の前を合わせて髪を結わえなおしている。ひょっとしてもう終わりだったのかな。おなじく身支度をつくろいながら媛子が不思議がっていると、千華音の背面から踊りだしたのは――抜き身の刀だった。
ひょっとして気づかれていたの? 死の眠りにつかせようとしたことを――?
媛子の顔に冷や汗が流れる。甘い夢は、シャボン玉がはじけるようにあっけなくつぶれた。やっぱり、この厳格な皇月の御神巫女を欺くなんて無理だったんだ…! ああ、ごめんなさい、千華音ちゃん。
だが、その刀剣は別の方角へまっすぐに投げられた。たちまち窓ガラスに映った夜景が無惨に割れて、尖った音を撒きながら破片が散乱する。ふたりを静かに押しつつむ舞台背景が崩れたかのように。
夜の静寂に響いた衝撃のきらめきに媛子が驚き、千華音がその刀剣の向かった先をはっしと睨みつける。睦みあわぬふたりの視線がはしなくも結ぶその一点へ現れたのは――闇に溶け出すような暗色の水干姿で、紅い蛇の仮面をつけた「男」だった。ベランダの手すりに沓(くつ)を載せて、曲芸師のように軽やかに立っている。
「ソウマちゃ…ん?!」
媛子が目を見開いて、うっかりその不気味な訪問者の名を告げてしまう。
やや親しみのありげな、その呼びかたには違和感を覚える。さりとて、千華音は動じなかった。動揺を悟られたら、おしまいだ。こいつが同じ空間にいるだけで、あたりに鉄条網が張り巡らされた気分になる。生れ落ちた世界を違えたほうが、よほど互いの幸福ではなかったかと確信できるほどに。
神職と思しきいでたちの人物は、音もせずに優雅に地へと降り立った。
窓枠に残るいびつな筋の入ったガラスを拳でパン、と砕いて、からだをやや傾けつつも、そこをあっさりと通り抜ける。部屋に夏の終わりの生ぬるい風が、びょおおお、と不気味に唸りながら入りこんできた。夜風に揺れてはためくカーテンがうっとうしいのか、「男」が腕で薙ぎ払うと、それはずたずたに引き裂かれてしまった。九の鎌首をもつ蛇のような影が、その首回りをうろついている。なんとおぞましい襟巻だろう。もはや、その存在自体が瘴気の塊である。千華音のアパートを訪れた時さえそうだった。いつも、ぞわぞわしてならない空気をあたりかわまず連れ込んでくるのだ、こいつは。現れるだけで、どこでも戦場に変えてしまう冷たい殺気を押し包んでいる。それが、近江和双磨という人物だった。
「ごきげんうるわしゅう、御神巫女さん。夜分におじゃまするよ」
招かれざる客人が嬉し気に唇の端をつりあげ、外した仮面を胸にあてたまま、うやうやしく頭を垂れた。
さも紳士然としたふるまいで、育ちの良さがにじみ出てはいる。だが、その素顔は、長い睫毛、いわくありげな流し目、澄まし顔で整った顔だちの、しかし、温かみというものがまったく通っていなさそうな顔だった。病者のように青白い顔で、どちらが本物の仮面なのかわからない。沓の下には、千華音の刀剣が踏みにじられている。ニタリと笑って、千華音と目が合うや、さらにそれを遠くに蹴り転がしたのだった。抵抗するな、という意味らしい。
「物騒なご挨拶だね。御観留め役にこんなことをして」
「ご無礼、平にご容赦ください。夜半に物音がしたものですから、防犯対策で」
「防犯…? 手練れの御神巫女ふたりを襲える一般人なんていやしないさ」
「仰せの通りですが、しかし、九頭蛇どもの勇み足もございます。近隣住民を巻き込みたくはないものですから」
やや声に棘をふくめて言い募る千華音。
こちらは島のルールにおおむね従っている。伝承も儀式のことも門外不出、報告だって逐一怠ってはいない。なのに、抜け駆けで監視役とは名ばかりの刺客を寄越してやまないのはそちらだろう、と言わんばかりに。
「ふ、そりゃあ、そうだろうね。君たち、いま、誰かに見られたくなかったことをしていたんじゃないかい」
ねえ、そうだろ? 前髪をさらりと掻きあげて、ぎとりと睨みつけるこの「男」。
相撲で言うところの、土俵際の足の残りを見きわめ、軍配をどちらに下そうかという鋭いまなざし。しかし、目に秒単位の動きを拾う厳しさこそはあろうが、爽やかさなど微塵もない。彼がこれから下す結論は、どちらも負けてしまうものに違いない。
彼が懐から差し出したものに、千華音も姫子も目を奪われる――いま、近江和双磨はスマートフォンを構えていたのだった。まるで印籠を見せつけるかのように。
画面を指で押すと、そこに映し出されたのは、なんと――千華音が媛子に果実をもとにして接吻を仕掛けた場面ではないか! 千華音は、たちまち体じゅうが燃え上がるような怒りの熱をおびる。
「その映像をどうなさるおつもりなの?」
「さあて、どうしようかな~。君たち、どうしたらいいのかな? 霊句子(たまくし)さまに報告したら、どうなるのかなあ。掟破りで島へ戻されて拷問? それとも、この都会の海で名も知らぬ骸になる? ただでさえ大蛇神さまの怒りは鎮まらないし、島ではあちこちの崩落が起きているし、島は年寄りと女だらけだし、困ったものだねえ」
そう言いながら、にやけた顔つきの双磨は画面に唇を寄せた――ちょうど、媛子と千華音が唇を結ぶと思われたあたりに。千華音が全身総毛だった。怒りに震えて声も出ず、刀がないものだから拳で殴りかかる――ところを、媛子が必死につなぎとめている。包帯を巻いた右手に、媛子の指がすべりこんでいた。
「それにしても、皇月の御神巫女。前にも言ったけれど、君はほんとうに『女』だね。いやになるくらいに、いい女だ。よもやそれを、そんなふうに遊ぶとは思わなかったよ。そんなちゃちな果実で自爆してくれるなんて、くくく…。まったく、どこまでこちらを楽しませてくれるんだい。だから、君が好きなんだ」
「な…!」
千華音は、しわが寄りそうなくらいに唇をきつく噛んだ。紅い果実のように、血が滲みそうな口もと。
そうか、こいつは以前にも媛子の部屋に置いてきた刀と私服とをご丁寧にも無言で返してきたことがあった。留守のあいだに、置き忘れたものが先に帰っている。媛子の部屋へ押しかけた闘気を別の場所で晴らした私に、それを金輪際失うなと警告したさに。私の部屋に勝手に出入りすることができるのだろう。そして、おそらく媛子の部屋にも、だった。ずっと、私たちのことを粘着して観察していたのだ。見ているだけならばいいものを、こそこそと余計な口出しまでしてくる。気持ちの悪く下衆な物言いで言い寄ってくる。どこまで、私たちの世界を邪魔すれば気が済むのだろうか。
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」