お正月の特別番組で、NHK教育の「ハーバード白熱教室」をちょっとだけ視聴しました。
ハーバード大学で一番人気の、マイケル・サンデル教授の政治哲学講義を十二回にわたって放送。それを二夜に分けて再放送したものです。
観たのは第一回の「正義とは」についてなんですが、千人もの聴衆がひしめく大教室で物怖じせずに弁舌をふるう教授はまさに堂々たるもの。
正義を問うのに、わかりやすいたとえ話をもちだすなど初心者にも分かりやすいきっかけをつくるあたりがうまい。しかも、回答者とは事前の打ち合わせもないわけですから、話がどこに飛んでいくかはわからないわけで。そこを機智で切り抜けるのがすばらしい。
ただし、後半になるとカントやらベンサムやらの哲学者名やら、その学説やらの説明が出てきまして理解が及ばないので視聴をあきらめました。
ただし、彼が唱える社会問題というのは、小説だとか、映画だとに頻繁に接していれば普遍的なテーゼといえますよね。
昨年末に東京大学での出張講義も再放送されていました。
そこで扱われたのは、所得格差や日本の戦争責任について。いきなりその本質に入るのではなくて、小さく身近な話題から論じていくのがおもしろくてなじみやすいのですよね。
しかし。ここでひとつ疑問があります。
彼のしかけているのは答えの定まらない対話。大学で教養を受けたものなら、ある程度、自分の頭で考えるトレーニングをします。でも、それがはたして世の流れにあっているのか。
そしてもうひとつ。
彼の唱える哲学とはあくまで西洋哲学に過ぎないこと。講義をすべて網羅して聴いたわけではないので憶測ですが、おそらく東洋哲学については語っていないはずです。しかし、日本人の死生観などはアニミズムや仏教、神道などの信仰と切り離せないもの。
しかも、現代の経済は欧米列強が衰退し、アジアの新興国が握っています。彼らには西洋人に叩き込まれたキリスト教的な道徳観や、近代哲学のもたらした合理的思考なんて通じやしない。
ですので、この講義が白熱しているのは米国もしくはその賛同国だけではないかという穿った見方もできますね。
とくに日本の戦争責任を論題にするのは、アメリカが敗戦国としての日本を今後も飼い殺しにするためにつごうのいい思想教育のように思えてなりません。
サンデル教授はいっそのこと、中国やイランなどで正義や平和を尊ぶこの講義をおこなってみてはいかがでしょうか。詩が戦車を止めないとどこかの詩人が嘆いたように、哲学は戦争と貧困の時代にあっては用をなさないものです。それでもそれを必要とするのは、一部の暮らしがそこそこ豊かで考える余裕がある地域の人びとに望まれるからです。
このように考えますのは、ひとえに哲学が好きではないからです。
大学時代の演習では英語やフランス語で原著を訳す作業ばかりさせられましたが、さっぱり身につきませんでした。しかも自分が興味のない哲学者の著作ばかり。日本の哲学者というのは、実はただの解説者、しかも限られた領域の解説者に過ぎないのですから。
そうは言いましても、ときおり、なんたるかの哲学書をひもといては思索にふけったふりをしてみるのが我が身の浅はかさ。
家族があの講義を聴いていて、こんなものをありがたがって観てるから、理屈ばかりこねて汗を流して働かない日本人が多くなったんだとぼやいていました。まさにおっしゃるとおり。考え込んでいたら、なにもできなくなります。哲学とは思索の世界に閉じこもることに他ならない。
いっけん対話をしているように見えて、ある点に至ると、強引に話の流れを変えようと押し切ったりするのが、じつはこの手の学者先生の本性なのでございます。要するに持論を展開して、相手を言い負かすことに血道を上げる。専門知識もありますが、企業が求めているのは人間関係を良くする対話術なのです。要するに当たり障りのないことだけ言っておけと。生活がかかってくると、そうならざるをえなくなります。
日本の大学はもっと実学的なことを学ばせるべき、という声は年々大きくなっています。私も大学で学んでことは楽しかったけれど、正直、社会に出てからの方の学びのほうが役に立つことが多かったものです。(卒業してから余計なことも学んでしまいましたが(苦笑))
この講義でおもしろかったのは、教授のたくみな話術というよりも、拙いながらも自分の意見をしっかりと伝えようとする学生たちの真剣味だったといえます。カントだのなんだのの学説を学ぶのはさておいて。教授がどんな拙い意見でもいったんは受けとめてくれるから、学生も安心して答えを投げられるのです。
でも、世の中には真面目な意見を述べようとしたって言わせない空気のほうが強いんですね。日本ではとくに。
この番組に熱中した方は、無駄に拘束時間の長い、会議というよりはただの喋り場と化している話し合いに、忸怩たる思いを抱き続けている方々ばかりなのではないでしょうか。時間短縮・経費削減で疲弊している社会では、まず熟議の場をつくりだすことからはじめるのさえ難しいのです。そもそも、熟議の手本であるべき国会ですら、議員の詭弁方便野次罵倒が飛び交って成立していない状況なのに。まずこの状況から変えないと、大学でいくらディベートの仕方を学んでも、学生たちが失望するだけではないでしょうか。
ハーバード大学で一番人気の、マイケル・サンデル教授の政治哲学講義を十二回にわたって放送。それを二夜に分けて再放送したものです。
観たのは第一回の「正義とは」についてなんですが、千人もの聴衆がひしめく大教室で物怖じせずに弁舌をふるう教授はまさに堂々たるもの。
正義を問うのに、わかりやすいたとえ話をもちだすなど初心者にも分かりやすいきっかけをつくるあたりがうまい。しかも、回答者とは事前の打ち合わせもないわけですから、話がどこに飛んでいくかはわからないわけで。そこを機智で切り抜けるのがすばらしい。
ただし、後半になるとカントやらベンサムやらの哲学者名やら、その学説やらの説明が出てきまして理解が及ばないので視聴をあきらめました。
ただし、彼が唱える社会問題というのは、小説だとか、映画だとに頻繁に接していれば普遍的なテーゼといえますよね。
昨年末に東京大学での出張講義も再放送されていました。
そこで扱われたのは、所得格差や日本の戦争責任について。いきなりその本質に入るのではなくて、小さく身近な話題から論じていくのがおもしろくてなじみやすいのですよね。
しかし。ここでひとつ疑問があります。
彼のしかけているのは答えの定まらない対話。大学で教養を受けたものなら、ある程度、自分の頭で考えるトレーニングをします。でも、それがはたして世の流れにあっているのか。
そしてもうひとつ。
彼の唱える哲学とはあくまで西洋哲学に過ぎないこと。講義をすべて網羅して聴いたわけではないので憶測ですが、おそらく東洋哲学については語っていないはずです。しかし、日本人の死生観などはアニミズムや仏教、神道などの信仰と切り離せないもの。
しかも、現代の経済は欧米列強が衰退し、アジアの新興国が握っています。彼らには西洋人に叩き込まれたキリスト教的な道徳観や、近代哲学のもたらした合理的思考なんて通じやしない。
ですので、この講義が白熱しているのは米国もしくはその賛同国だけではないかという穿った見方もできますね。
とくに日本の戦争責任を論題にするのは、アメリカが敗戦国としての日本を今後も飼い殺しにするためにつごうのいい思想教育のように思えてなりません。
サンデル教授はいっそのこと、中国やイランなどで正義や平和を尊ぶこの講義をおこなってみてはいかがでしょうか。詩が戦車を止めないとどこかの詩人が嘆いたように、哲学は戦争と貧困の時代にあっては用をなさないものです。それでもそれを必要とするのは、一部の暮らしがそこそこ豊かで考える余裕がある地域の人びとに望まれるからです。
このように考えますのは、ひとえに哲学が好きではないからです。
大学時代の演習では英語やフランス語で原著を訳す作業ばかりさせられましたが、さっぱり身につきませんでした。しかも自分が興味のない哲学者の著作ばかり。日本の哲学者というのは、実はただの解説者、しかも限られた領域の解説者に過ぎないのですから。
そうは言いましても、ときおり、なんたるかの哲学書をひもといては思索にふけったふりをしてみるのが我が身の浅はかさ。
家族があの講義を聴いていて、こんなものをありがたがって観てるから、理屈ばかりこねて汗を流して働かない日本人が多くなったんだとぼやいていました。まさにおっしゃるとおり。考え込んでいたら、なにもできなくなります。哲学とは思索の世界に閉じこもることに他ならない。
いっけん対話をしているように見えて、ある点に至ると、強引に話の流れを変えようと押し切ったりするのが、じつはこの手の学者先生の本性なのでございます。要するに持論を展開して、相手を言い負かすことに血道を上げる。専門知識もありますが、企業が求めているのは人間関係を良くする対話術なのです。要するに当たり障りのないことだけ言っておけと。生活がかかってくると、そうならざるをえなくなります。
日本の大学はもっと実学的なことを学ばせるべき、という声は年々大きくなっています。私も大学で学んでことは楽しかったけれど、正直、社会に出てからの方の学びのほうが役に立つことが多かったものです。(卒業してから余計なことも学んでしまいましたが(苦笑))
この講義でおもしろかったのは、教授のたくみな話術というよりも、拙いながらも自分の意見をしっかりと伝えようとする学生たちの真剣味だったといえます。カントだのなんだのの学説を学ぶのはさておいて。教授がどんな拙い意見でもいったんは受けとめてくれるから、学生も安心して答えを投げられるのです。
でも、世の中には真面目な意見を述べようとしたって言わせない空気のほうが強いんですね。日本ではとくに。
この番組に熱中した方は、無駄に拘束時間の長い、会議というよりはただの喋り場と化している話し合いに、忸怩たる思いを抱き続けている方々ばかりなのではないでしょうか。時間短縮・経費削減で疲弊している社会では、まず熟議の場をつくりだすことからはじめるのさえ難しいのです。そもそも、熟議の手本であるべき国会ですら、議員の詭弁方便野次罵倒が飛び交って成立していない状況なのに。まずこの状況から変えないと、大学でいくらディベートの仕方を学んでも、学生たちが失望するだけではないでしょうか。