陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

忘れられ、踏みにじられ、それでも生き延びる絵画の条件

2018-05-13 | 芸術・文化・科学・歴史

美術史上の名画をどれか一枚、自分のものにできると言われたら?
あなたはどの絵画を所望しますか。多くの人は、とりあえず、ルーブル美術館にあるあの一枚、世界一有名なあの女性の微笑みを思い浮かべるはずです。そう、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の『モナ・リザ』。今では誰でも知っている名画中の名画も、驚くべきことに、一世紀以上も前はその存在を知られていませんでした。『モナ・リザ』が有名になったのは、1911年の盗難事件からです。美術館の展示室から清掃員を装った男に盗まれたこの一件が大々的に報道されたためでした。

最近、びっくりしたニュースは、宇佐美圭司さん(1940年-2012年)の絵が知らずに廃棄されたこと。
《きずな》(1977年)というタイトル。東京大学本郷キャンパスの生協食堂の壁に、当時同大名誉教授だった高階秀爾氏に依頼されて制作されたものだったらしい。宇佐美画伯は、ベネチアビエンナーレの日本代表と紹介されていました。けっこう、大学とか、公共の場所で大画面で飾られていた人ではなかったか。90年代ぐらいは画集がよく出ていて、私も買いました。でも、このまえ、他の現代美術の作品集ともども古本屋に売り払いましたけど。

ご存じない方のために説明しておくと、現代画家とされているのですが、スローモーション画像のような人間の動きをすこしずつずらした絵を描かれる方でした。美大で教鞭とっていらっしゃったけれど、ご本人は東京芸大などのご出身でなく独学なんですね。シルクスクリーンの流麗なグラデーションが特徴的でした。岩波新書で『20世紀美術』という著作もあって、当時を代表する日本の画家です。

でも、今から見ると、失礼なのですが、やはり色褪せて見えてしまうんですよね。
トランプのカードをなめらかに滑らしたような人体のシルエットの羅列(システム絵画というらしい)というこの描きかた、フォトショップやイラストレーターなどのお絵かきソフトを使えば素人でもあっさりできます。現物を見るとスケールがあるんですが、インターネットを通してみると、色がごっちゃりして見づらいですよね。ポロックなどのオールオーヴァー絵画のような、蜜の垂れた蜘蛛の糸に捕らわれるような怖さがあるわけでなし。絵の焦点がわからず、小ぎれいに色と形で遊んでいるだけで、なにを描いて訴えたいのかわからない。日本的な、あっさり醤油味といった感じ。この絵を間近に見ながらの食事はおいしかったのでしょうか。そんな感想を浮かべる人がいてもおかしくはないでしょう。

それに、今はどこの美術館も博物館も、サブカルチャーブーム。
ひと昔前のアカデミックなひとが論じていた「現代」美術がもはや時代遅れ。いまの美術を学んでいる皆さん、ジャクソン・ポロックとか、マーク・ロスコとかまあそこらへんは知っているでしょうが、日本の「もの派」とか「具体」とか知らないですよね。岡本太郎や横尾忠則あたりは知っているだろうけれど、赤瀬川源平がニセ一万円札刷ってばらまいて大騒ぎになったとか、河原温が毎日の日付だけ書いた紙を展示したとか、そんなあほらしいことがアートとしてまかり通っていたなんてこと、ご存じかしら。いや、知らなくていいんです、ほんとに。日本が高度経済成長の時期で、学生闘争を経て、豊かな時代だからこそ生まれた時代の徒花だったのでしょう、あれは。

90年代あたりまでに、雨後のたけのこよろしく、ハコモノ施設がわんさか濫造されまくって、ポストモダニズム建築家どもがデザインしたようわからん構造になっていて、さらにはモニュメントが置かれて。そんなことに血税が注がれたことを、誰も覚えていないんです。

今回、知らずに廃棄された宇佐美画伯の壁画は時価1000万円ともいわれています。
生協の職員が本当に価値を知らなくてうっかり処分してしまったのか、撤去と移転費用がかかるので見捨てたのか、資産価値として高すぎるから暗黙裡に闇に葬ったのか、故人の画家に怨み抱いたひとがわざとやったのか、真相はさだかではありません。本人がいないから、もう復活させようがないし。壊した、捨てた、と思っていたら、どこかでばら売りされていたりして…。

寄贈しているから、所有権はもちろん大学側にあります。正確に言えば、東大でなく東大生協に所有権があったらしい(「東京大学中央食堂の絵画廃棄処分についてのお詫び」2018年5月8日)。現所有者がどう粗末に扱おうが、法律上は、制作者(もしくはその相続人)が文句を言える筋合いではありません。イームズのデザイナーズチェアを買った人が、職人に断りなく、その椅子を分解しようが、雨ざらしにしようが自由です。贈与でなくて、賃貸借契約として書面を交わせばよかったのかもしれませんが。最近も、テレビ局に貸して行方不明になった故・梶原一騎の『愛と誠』の幻の原稿がネットオークションに流れたらしい。余談ですが、私のきょうだい(故人)の入賞した絵画も、一周忌が終わったあと、実家の菩提寺から飾りたいと言われました。葬式会場で飾っていて参列者が多かったので、プレミアがつくとでも思ったのかどうか。将来的に檀家を辞めたとたん、捨てられたりしたらたまらないので、お断りしました。亡くなった人の作品が公開されたら、それで供養になるのかといえば、そうでもない気がします。

「人生は短し、されど、芸術は長し」といいますが、ブームになってもひと世代経てば、さっぱりその名声が残らない作品もあります。正直に言うと、2000年代ごろまでの教育現場にいた芸術家の先生方の作品でどれだけ後世に残るものがあるんでしょうか。就職できない、自活能力のない学生たちを大量に生み出したという意味では、かなりの戦犯であるようにも思われます。

いま、アニメや漫画は大学でも教えられているんですが、大学で学ぶくらいなら、第一戦で活躍するアニメスタジオや漫画家のアシスタントになって現場で叩きあげられたほうがいんじゃないかな、と思うんですよね。

それにしても、『モナ・リザ』ではないけれど、まさかこんな椿事でご自身の名声がふたたびよみがえるとは、宇佐美氏ご本人も思いだにしなかったでしょうね…。ご遺族にしても憤懣やるかたなしでしょう。東大の食堂にきたら、自分の親の、祖父の遺した作品が見られると思っていただろうに。

画家は生前、その絵の名前を自己努力で押し上げることはできるでしょう。しかし、名画を名画たらしめるのは、その作品がたどる数奇な運命なのです。名画は価値があるから生き延びたのではなく、たまたま、世事を賑わしたり、声の大きい評論家に認められたり、優れた理解者や環境の良い保存場所を得られるという、まさに偶然の要素が折り重なって、時代の陥没を切り抜けてきたにすぎないのです。余人を寄せ付けない洞穴の奥深く、画家になるという気負いもなく、名も無き原始人が明日を生き延びるために願って描いた牛が、「アルタミラの洞窟画」として残されたように。空腹や寒さに耐えながら、祈るような気持ちで、堅い岩盤に線や色を刻み込んだ祖先たちは、生存本能のために描いたに過ぎないのですが、その動機があったからこそ1万数千年後のわれわれがここにいることを知らせてくれる奇跡の名画であります。


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美術(絵画・彫刻・建築・陶芸・デザイン)・音楽・書道・文芸・映画・写真・伝統芸能・文学・現代アート・美学・博物館学など、芸術に関する評論や考察(を含む日記)の目次です。




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