陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

地方の美術館の企画展がショボすぎる

2023-11-09 | 芸術・文化・科学・歴史

懐かしのアニメ特集なるテレビ番組でいつも紹介されていた「フランダースの犬」。
画家を目指す少年ネロが貧苦にあえぎ、教会で息絶える最終回。ルーベンスの名画を観ながら、愛犬とともに旅立つ。子どものころ、好きな絵を観ながら生涯を終えるのは美しい──そう信じていた。だが…。

個人事業主になった十年当たり前から、ミュージアムには通わなくなった。
恩師の美術家から秋の野外展示の誘いもあったが、毎年の展示を見るにつけ、これはもはや時間の無駄だと思い遠のいてしまっている。展示場所の公園はコロナもあってか、人がまばら。野外彫刻に足を止める人などほとんどいない。私も学生時代は、かなりの数をみたが、正直、目の保養にもならない。モニュメントはスケール感があってなんぼの造形なのに、お金がかかるから、チープな素材でみみっちくつくった置物になっていて、もはや作品と呼べるレベルではないからだ。

収集していた美術カタログや芸術書などもほとんど蔵書を手放した。
さすがに自分の修士論文に関する資料は残してはあるが。空き家に保管しているものの読み返す暇がないわけだ。そもそも読む気も起らない。若い頃の人生を支えたものに、私は魅力を感じなくなった。なのに、いまだに未練はあるわけだ。

文化の日にひさびさに地元のミュージアムでも覗いてみようかとHPを調べたら。
なんと、母校の大学で教えていた女性造形作家の企画展が春先にあったという。それはいいが、驚いたのは数年前に亡くなっており、遺族が寄贈したという事実だ。受賞歴があるから相続税対策か、それとも、遺族は芸術活動にかまける個人の遺品管理に嫌気がさしたのか。学芸員は研究者肌だから、芸術家の偉業を偲んでうんぬんの解説文でも仰々しくのっけて展示室で飾るだろう。が、故人の遺品整理をおこなった経験者からすれば、それは公共の文化施設でお披露目するほどの価値があるのか、わかったものではない。

その女性造形作家こと大学教官と、私とは直接面識はなかった。
だが、学生時代、その先生は授業に遅刻したり、当日休講になることが多く、評判があまりいい教師とは言い難かった。いい意味では放任主義だが、悪く言えば指導放棄。当然ながら、そのひとの研究室に入った当時の学生さんは、センセイの画風に染まって抽象画めいたもやもやした絵画を量産して、卒業後はフリーター生活をつづけながら画業を細々と…といった末路をたどったわけだ。就職氷河期世代だから院卒も多かった。そんな無職無益な学生を生み出しながら、のうのうと大学で教え、自身の創作のことにしかかまけなかった。そんなひとを、その作品を公立美術館で展示してどうなるのか? 私は疑問に思わざるを得ない。いや、その女性教官は性格悪い方ではなかったのだがね。

私はかつて、一時期、この地方美術館の会員になったことがあった。
学芸員を目指していたので、美術館に下心があったためだ。だが、会費を払い、お知らせの企画展示にせっせと出かけ、知り合いの学芸員さんのミュージアムトークにも通い、顔を覚えてもらおうとして努力しても、けっきょく私は家の事情で、美術研究の道をあきらめざるをえなかったわけだ。いまは知り合いから展示の案内がきても、見向きもしない。もともと作品の好き嫌いが激しかった私は、何でもありの展示の美術館に勤められるはずもなかったろう。いまとなっては、美術史など学ばなければよかった、と思うぐらいなのだから。

コロナ禍で失職し、円安やロシア侵攻などの影響で家計が圧迫し、明日をも知れない生活を強いられている人がいる。その横で、豊かな教養文化人きどりたちを相手どった展示などをして、国や県から補助金をもらい、教師や公務員やらの退職者が役職手当もついて、のんびり道楽にかまけている。私はこの格差にもはや憤りを感じざるを得ない。キリギリスの道楽はアリの働きには及ばない。

印象派やらの教科書に載っているような歴史的な作品ならばいい。
だが、現存もしくは近年物故者の現代アートと呼ばれるような作品は展示する価値があるのだろうか。十数年まえから地元で有名な画家と呼ばれる人の展示をさかんにしてはいるが、展示室には鑑賞者がほとんどいなかった。田舎の美術館は資金力が乏しいから、安っぽい作品しか購入できない。そもそも、上記の女性アーティストのような、タダで入手した作品を展示しておけば事足りる。そんな作品ばかりだから、学芸員も気合が入っていないことが解説文から見え見えなのだ。そこがもどかしい。

この地元の美術館、以前は海外ミュージアムのコレクションを展示するほど力があったのだが。
ここ数年は企画展が恐ろしくショボくて足を運ぶ気が起きないわけである。HPにある企画展示の案内冊子を観て解説文を読めばいいや、としか思わない。その解説文ですら、若い学芸員さんなのか、文章がくだけすぎて内容が軽すぎるわけだ。ラジオでイベント呼び込み感覚で集客しているが、あきらかに町おこしに貢献できるアニメフェスティバルの集客力に負けている。案内ポスターもずいぶんポップにしてあるが、いいのか、コレで? その展観のコンセプトがわからないし、ただ人間の姿をしたものをごちゃごちゃ寄せ集めて展示してる感がありありなわけで。

90年代に全国価値でバカスカ建ててしまったハコモノミュージアム。
その維持費が高くつくと言われて久しい。歴史的な博物館や民俗生活用品ならいい。けれども、近代美術すなわちモダンアートと呼ばれる地方県に一館はあるミュージアムはそろそろ整理してもよいのではないだろうか。こんな文化施設の維持費に税金を流されたらたまらない。それよりも、子どもたちの文化教育活動やら、図書館での資料の充実に力を入れた方がマシではないか。その施設を毎日維持するお金で、喰うに困った人が幾人も救えるはずなのに。

現代の美術館は、教会や神社仏閣のような、個人に救いを与えようとしない。
そこにあるのは、芸術家になったことで労働の苦役を逃れた上級人だと思い込んでいる人の児戯に類した手すさびの陳列だけだ。描き手の意図など理解できず、あるのは個々人のプライベートな物語や感情の揺らぎ。他人の創作など拝む暇があったら、自分で絵を描いて気晴らししたほうがよい。今はもはやそういう時代ではないか。

ミュージアムで割高のチケットで虚しい作品を眺めるぐらいならば、そのお金で好きな作家の漫画でも買った方が気分転換になる。敷居の高すぎる文化は選民意識の高いお歴々のお遊びで、娯楽が好きな一般人には理解されないだろう。そうしたミュージアムが囲い込み、価値づけた美術品がさて百年のちも語られるかどうかといえば、SNS検索でもしてみればおわかりだろう。もはや、カタチで残したからといってその人の業績が語り継がれるのだとは限らないのである。

もう税金で無駄な文化人を養うのはやめにしてくれないだろうか? 
文科系の研究やら芸術活動を行いたいのならば、まず、その本人は自力で金を稼ぐべきではないか。古代遺跡を発掘したシュリーマンのように。

(2022/11/03)








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