この記事は2006年6月の記事の再投稿ですが、現在でもいささかも問題提起としては無意味ではないと信じて再投稿し
ます。
昨日、記事を書いていて書き足りないと思いながらも時間が無くて、キーボードを閉じた。
森口奈緒美さんの文章を読んで何時も,ものの感じ方がシンクロしている事に驚いている。
自閉症者にとってのバリアフリーの提唱である。
お年寄り、視覚障害、聴覚障害,肢体障害等の生き易さを検討することは私たちにとって充分とはまだまだ言えないもの
の、理解・検討し易い。
しかし、彼女のような、機智豊かな知性の持ち主でもハンディを抱えている事に私達は鈍感なのだ。
娘の場合も小学校の時にこの辺の無理解を巡って、学校、教育委員会と私は交渉しながら、何度も仰け反りそうになつた。
呆れて、物が言えなくなるのだった。先方は此方が非常識との認識を頑として変えない。
戦っても娘が成長する時間は止まらない、待ってはくれないのだ。
子供を人質に捕られているようなものだ。戦う事は後でゆっくりと出来る、今は娘と共に歩むことだ。
アスペ・高機能自閉症の人達の抱えている生きにくさを粘り強く説明・説得する事は放棄するわけではないが、
いったん行政との不毛な戦いをエポケー(判断停止)することにした。
感覚の相違に基ずく生き難さを縷々説明するのは、ここでは出来ないので、森口さんの著作などでで読んで頂きたい。
私自身(この年になって診断を受ける気はさらさら無いが)幼い頃から同じような悩みと戦ってきたから彼女の
『変光星』を初版時に読んで心がシンクロして仕方が無いほどであった。
娘が2,3歳の頃だったと記憶している。
それ以前に森口さんと似た性格の女性の受験指導をした経験があったので、胸が震えて目許がボーッとなって
しばし表現不能の感慨に浸った。私の指導した人はカミンググアウトしていないし、私もアスペと直感しても、心のドアを
叩いてはいけないと感じていた。
彼女は首尾よく志望校に合格したのだが、志望専攻はやはり、『心理学科』だった。
『君自身が知りたいのは君自身の心だね』合格報告の時にそう言ったことを覚えている。
『僕もそうだから』『えっ』と言ってはにかんだ顔が全てを語っていた。
森口さんは『平行線』と言う続編を書いているのだが、高校以降の思春期後期がテーマになっている。
余談だが、変光星と平行線の言葉を仮名にするなりローマ字表記にするなりして欲しい。
私の心の震えの理由が分かると思う。森口さんの場合余りにも感性が先に先にとほとばしる。
しかし、鋭さと裏腹に、感性の鈍磨した現実世間からは逆に鈍いと評価される。
素直な人だから、『鈍い』と信じ込み『鈍さを克服しようと』努力しようとする。
彼女の思春期の頃の世相は今とちがって軽薄ではなかったのだ。
『努力』が美徳の時代に幻の目標に立ち向かう可憐な少女。
如何にも、森口さんらしくドンキホーテよろしく思い込みで生きようとする。
一言の短く端的、適切、それでいて、心の行き届いたアドバイスが彼女の周囲にあれば!!
この様な真摯な,ひたむきな人を受け入れようとしない社会の在り方に風穴をあけ続けるべく努力している少数者が
存在しているのだ。
私はその様に生きてきた積りである。
だからこそ、Barrier Free for Autism の森口奈緒美さんの提起を支持し私なりに、娘の自立を前提に再び粘り強く世間・
社会に説明・説得を再開している。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
アスペルガー症候群の悩みに煩悶・苦闘された思春期を綴った珠玉の作品『変光星』の後書きに書かれているように
『他者との協調性を追求する事の後に訪れる自分らしさの喪失』は著者の森口奈緒美さんの人柄が表れていて胸を打つ。
療育・リハビリをすることはその当事者である子供達に何をもたらし、何を失わせるのだろうか?
教育に携わる者にとって最も基本的な問いかけであろう。
もっと根源的の問いとは、学校なりの教育機関は存在そのものが<意義あるもの>との暗黙の了解を前提に教育が語られてい
るが、その歪みに皆こぞって無頓着過ぎはしないか?インクルージョン、ノーマライゼーションを声高に叫ぶ前に
『一体、現在の公教育そのもの自体が子供にとって本当に何をもたらし、何を犠牲にし、何を簒奪しているのか』
本気で淵源まで考え抜いている教師は何人いるのだろうか?
本当に今の教育環境は胸を張れるものなのか?同じ構造が療育者・専門家にとっても顕著に見て取れる。
根源的な問い『その療法によって何が子供達にもたらされ、何が新たな苦悩の始まりになるのか。
貴方は応えられますか?』この問いに怒り出す療育専門家に何度も出会ってきた。
例えば医者が処方した薬が副作用で新たな病気を誘発した時、どの様な責任、心の痛みを感じるのだろうか?
一つの前進がもたらすものと、それが体質的に不適合である時、代替療法的なスペアーをこの人は持っているのだろうか?
私なりの療育専門家・治療医師評価法である。
もちろんこれは、教育者についても用いている。
盲導犬の訓練で視覚障害者の指示に対応して行動するようになつても、訓練は半分も終わっていないのだと言う。
一人前(?)の盲導犬は今度は指示命令を拒否する訓練に入ると言う。
つまり、その指示が主人に危機・危険をもたらす状況でなされた時に敢然と無視する訓練をして始めて盲導犬は盲導犬の
訓練を終えるのだそうだ。
発達障害の療育・教育において私が物足りなさを感じるのはこの様な点である。
『はい』と指示を守れる良い子の障害児を量産するのならその様な教育は障害そのものだと思う。
コミュニケーションとは他人と協調する事では無い筈だ。
自分の意思を拒否も含めて相手に伝えることである。
日本の教育はこの点を甚だしく誤解し歪曲していると私は常々思っている。
ます。
昨日、記事を書いていて書き足りないと思いながらも時間が無くて、キーボードを閉じた。
森口奈緒美さんの文章を読んで何時も,ものの感じ方がシンクロしている事に驚いている。
自閉症者にとってのバリアフリーの提唱である。
お年寄り、視覚障害、聴覚障害,肢体障害等の生き易さを検討することは私たちにとって充分とはまだまだ言えないもの
の、理解・検討し易い。
しかし、彼女のような、機智豊かな知性の持ち主でもハンディを抱えている事に私達は鈍感なのだ。
娘の場合も小学校の時にこの辺の無理解を巡って、学校、教育委員会と私は交渉しながら、何度も仰け反りそうになつた。
呆れて、物が言えなくなるのだった。先方は此方が非常識との認識を頑として変えない。
戦っても娘が成長する時間は止まらない、待ってはくれないのだ。
子供を人質に捕られているようなものだ。戦う事は後でゆっくりと出来る、今は娘と共に歩むことだ。
アスペ・高機能自閉症の人達の抱えている生きにくさを粘り強く説明・説得する事は放棄するわけではないが、
いったん行政との不毛な戦いをエポケー(判断停止)することにした。
感覚の相違に基ずく生き難さを縷々説明するのは、ここでは出来ないので、森口さんの著作などでで読んで頂きたい。
私自身(この年になって診断を受ける気はさらさら無いが)幼い頃から同じような悩みと戦ってきたから彼女の
『変光星』を初版時に読んで心がシンクロして仕方が無いほどであった。
娘が2,3歳の頃だったと記憶している。
それ以前に森口さんと似た性格の女性の受験指導をした経験があったので、胸が震えて目許がボーッとなって
しばし表現不能の感慨に浸った。私の指導した人はカミンググアウトしていないし、私もアスペと直感しても、心のドアを
叩いてはいけないと感じていた。
彼女は首尾よく志望校に合格したのだが、志望専攻はやはり、『心理学科』だった。
『君自身が知りたいのは君自身の心だね』合格報告の時にそう言ったことを覚えている。
『僕もそうだから』『えっ』と言ってはにかんだ顔が全てを語っていた。
森口さんは『平行線』と言う続編を書いているのだが、高校以降の思春期後期がテーマになっている。
余談だが、変光星と平行線の言葉を仮名にするなりローマ字表記にするなりして欲しい。
私の心の震えの理由が分かると思う。森口さんの場合余りにも感性が先に先にとほとばしる。
しかし、鋭さと裏腹に、感性の鈍磨した現実世間からは逆に鈍いと評価される。
素直な人だから、『鈍い』と信じ込み『鈍さを克服しようと』努力しようとする。
彼女の思春期の頃の世相は今とちがって軽薄ではなかったのだ。
『努力』が美徳の時代に幻の目標に立ち向かう可憐な少女。
如何にも、森口さんらしくドンキホーテよろしく思い込みで生きようとする。
一言の短く端的、適切、それでいて、心の行き届いたアドバイスが彼女の周囲にあれば!!
この様な真摯な,ひたむきな人を受け入れようとしない社会の在り方に風穴をあけ続けるべく努力している少数者が
存在しているのだ。
私はその様に生きてきた積りである。
だからこそ、Barrier Free for Autism の森口奈緒美さんの提起を支持し私なりに、娘の自立を前提に再び粘り強く世間・
社会に説明・説得を再開している。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
アスペルガー症候群の悩みに煩悶・苦闘された思春期を綴った珠玉の作品『変光星』の後書きに書かれているように
『他者との協調性を追求する事の後に訪れる自分らしさの喪失』は著者の森口奈緒美さんの人柄が表れていて胸を打つ。
療育・リハビリをすることはその当事者である子供達に何をもたらし、何を失わせるのだろうか?
教育に携わる者にとって最も基本的な問いかけであろう。
もっと根源的の問いとは、学校なりの教育機関は存在そのものが<意義あるもの>との暗黙の了解を前提に教育が語られてい
るが、その歪みに皆こぞって無頓着過ぎはしないか?インクルージョン、ノーマライゼーションを声高に叫ぶ前に
『一体、現在の公教育そのもの自体が子供にとって本当に何をもたらし、何を犠牲にし、何を簒奪しているのか』
本気で淵源まで考え抜いている教師は何人いるのだろうか?
本当に今の教育環境は胸を張れるものなのか?同じ構造が療育者・専門家にとっても顕著に見て取れる。
根源的な問い『その療法によって何が子供達にもたらされ、何が新たな苦悩の始まりになるのか。
貴方は応えられますか?』この問いに怒り出す療育専門家に何度も出会ってきた。
例えば医者が処方した薬が副作用で新たな病気を誘発した時、どの様な責任、心の痛みを感じるのだろうか?
一つの前進がもたらすものと、それが体質的に不適合である時、代替療法的なスペアーをこの人は持っているのだろうか?
私なりの療育専門家・治療医師評価法である。
もちろんこれは、教育者についても用いている。
盲導犬の訓練で視覚障害者の指示に対応して行動するようになつても、訓練は半分も終わっていないのだと言う。
一人前(?)の盲導犬は今度は指示命令を拒否する訓練に入ると言う。
つまり、その指示が主人に危機・危険をもたらす状況でなされた時に敢然と無視する訓練をして始めて盲導犬は盲導犬の
訓練を終えるのだそうだ。
発達障害の療育・教育において私が物足りなさを感じるのはこの様な点である。
『はい』と指示を守れる良い子の障害児を量産するのならその様な教育は障害そのものだと思う。
コミュニケーションとは他人と協調する事では無い筈だ。
自分の意思を拒否も含めて相手に伝えることである。
日本の教育はこの点を甚だしく誤解し歪曲していると私は常々思っている。
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