内海健『さまよえる自己』を読むと、動物から人間が立ち上がるその瞬間に、ノモス(掟)によるピュシス(自然)の殺害が起こっている、この法以前の暴力の有責性を引き受けることによって、人は意識ー主体たり得る、と読める。 twitter.com/afcp_01/status…
— すすはらい (@susuharai) 2018年4月15日 - 02:00
ここは開き直らない方がいいところだと思うけどなあ。治療も教育も、当然療育も、その本質は押し付けだし、虐待的だし、違法性をまとっているんじゃないかな。ただ一定の条件下ではその加害性が阻却されることもある、くらいに考えておくほうが無難… twitter.com/i/web/status/8…
— afcp (@afcp_01) 2017年3月7日 - 20:37
@afcp_01 前にも似たようなツイート twitter.com/afcp_01/status… をしたことがあったけど、その「一定の条件」がなんなのか、未だにはっきりとはわからない。ただアナーキズムを避けて、それでも治療や教育を続けていくための隘路を、探さないといけないんだろうなあ。
— afcp (@afcp_01) 2017年3月7日 - 20:39
前にも書いたかもしれないけど、教育は本質的に虐待的なんだと思うけどな。一定の条件が整った時だけ、その虐待性、違法性が阻却されるというのが、制御しやすい考え方なんじゃないだろうか。 / “「あなたのため」が「教育虐待」に変わるとき …” htn.to/EdN8KA
— afcp (@afcp_01) 2015年7月14日 - 11:16
@afcp_01 ではその「一定の条件」がなにか、というのが難しい。「本人の同意」は条件に入れたいところだけど。家族の中では同意の強制がしばしば起こるからなあ……。労働基準法的な量の制限もいるのかなあ。
— afcp (@afcp_01) 2015年7月14日 - 11:20
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