『絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界なのです。』
『世界がまさしくわれわれが見る当のものであるということと、しかも、われわれが【改めて】それを見ることを学ばねばならぬということとは二つながら同時に真実なのである』 ーメルロ・ポンティ
メルロ・ポンティに『セザンヌの懐疑』に言及した論考が有ります。「客観的・写実」でも 「主観的・印象主義」でもない絵画表現とは?との懐疑がセザンヌの絵画に表現されているとの趣旨。クレーも次の様に述べています!
「芸術とは見えるものを描くのではなく見えないものを見えるようにすること」
石川信義先生『心病める人たち』読了。日本の精神医療を変えるための、血の滲むような凄まじい、けれども楽しい実践の記録。一つだけ引用: 精神病者に対する文化を変えるには、手段はただひとつしかない。精神病者が一般の人に接する機会をできるだけ増やし、彼らの真の姿を知ってもらうこと。→
→本書の出版から20年以上経った今、べてるがそれを実に素晴らしい形で成し遂げているのがうれしい。そしてハウス加賀谷と松本キックの『統合失調症がやってきた』も、その系譜に並ぶ。というわけで次に読むのはこの本にしよう。
○大人の計算再学習ー展開編
以前よりも速い方法
68×52=70×50+2×18
以前の様に
68×52=70×50+2(2+16)とはせずにいきなり2×18です
数式を眺めると2と18の由来が判ります!
78×32=80×30+2×48=2496
2×48の由来判明しましたか?
○大人の計算再学習ー展開編2
私が大人の計算再学習に拘る理由は学校で習う縦計算は多様な計算方法の一部でしかなくて、寧ろ計算を困難にしているとの子供の懐疑心の意義を大人は評価すべきだと考えてのことです。
58×47
ならば60、45 、2×13と感じませんか?→(続)
○大人の計算再学習ー展開編2の続き
承前) 頭の軟らかさです!
好奇心から58→60、47→45
2はその増(差)分。
13は良く眺めて(笑)!
ホラ、47→60でも、45→58でも13が
関係して来ます(笑)!
だから58×47=60×45+2×13=2726
です(笑)!
○大人の計算再学習ー展開編のマトメ
だから、インド式計算は簡単に理解出来ます!
57×53=60×50+3×7=3021
簡単ですよね(^_-)-☆!
子供の好奇心を評価せずに自分の馴れた教え(押し)込まれた伝統的な複雑で込み入った手続の必要な縦計算を唯一の計算法と頑なに信じている大人の思考の鈍さを反省して欲しいのです!
58
×47
ーーー
406
232
ーーー
2726
の計算は私には苦痛です(爆笑)←虐待
日本の国語の問題は無思想性【欠】は本来はアクビ、口を開ける動作。歌、飲、歓、吹は全て口を開ける動作。だから、読みが違う。以前述べた様に缺が欠けているの本来の字。間歇泉と言う場合に用いる【歇】は小停止、休みの意味。これは、ケツと読む。この歇と缺が混同され歇→欠の短縮が成立(呆)
歇のケツの読みは喝、葛、渇、褐のカツに由来してのケツ。欠にはケツの読み有り得ない。小学生の私は子ども心で困惑した覚えが有る。学者・権威(とされる所謂有識者)の恣意的な教育政策は無知蒙昧な国民を量産していると私は思春期の頃から考えている。
例えば、決は川の堤防が切れて決壊する意味。訣、抉の読みはケツ。障害の本質は【缺】。器は凹の空白に液体を充たすことが本来の役割。凸凹は凵(うけばこ)。凵の仲間は函、凶などの字で解る様に中味の充たし方次第。凸は凵の否定。山の様に谷、渓谷が不在。見てくれよりも、何を充たすかが重要。
欠陥の欠は本来は【缺】。缶は液体を入れる器。その央に欠損が生じた字が【缺】。障害の本質は【缺】。器は凹の空白に液体を充たすことが本来の役割。見てくれよりも、何を充たすかが重要。央の縦の欠損に拘るよりも、何を充たすかを真剣に考えるのが障害教育・支援。その縦の芯が欠損しているのです。
【日本語教育の疑問】日本語についての知見を呟きます。欠陥の【欠】は本来【缺】缶(ほとぎ)は液体を入れる器。現代人が連想する缶詰の缶の字は本来は罐と書く。灌、勸、歡、觀などの旁の読みがカン。缶の読みは本来カンではない。その央の形の左が切れ、欠損を生じた状態を表す字が【缺】
日本の教育の歪みは権力の支離滅裂な知識の教授・習得上の欺瞞、虚偽、不都合な真実迄も丸覚えで鵜呑みにする公教育観に集約される。欠をケツと読むならば飲、歌もケツと読み国民を量産すると良い。缶をカンと読む破廉恥な教育政策は政策のミスを支持する愚な民を量産する為だとすら考えている。
決の字の央の字の左縦に走った切れ・毀れた欠落を宝・資質の損失・傷と拘るよりも欠落を補修してユニークな模様に見立て器に何を充たすかを真剣に考えるのが教育・支援。その縦のひび割れの補修による新たなる模様、補修による芯棒の立て方に日本の教育・福祉政策の根本的な無定見と欠落が顕れている。
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