ここまで4回にわたって、英語と日本語の違い、思考様式の違い、そこから文化の違いにまで思いをはせてきました。
前回の、意見をはっきり言うのが日本人は苦手だ、という仮説ですが、インターネット上ではたくさんの意見が飛び交っています(と、よく聞きます)。
これは実は、インターネット空間であれば、他の人が言う意見をたくさん見ることができ、そのうえでかけるからなのではないか、と思っています。
何かの意見に対してのコメントが膨大な数に上るのも、そういうことかな、と思ったりします。
僕自身の創作も、何か元になるものがあれば、いくらでもわいてきますが、ゼロから、となると途端に苦しむんですけどね。
とはいえ、日本で親が子供を叱るときに、「他の人の前で・・・」とか「他の人に迷惑をかけないように・・・」ということがよくあるそうです。
これも考えてきた他者と共通認識を得て、その時分から見えているものを語っていく日本語の文法だからそうなるのかもしれません。
よく似ているといわれるイエスの黄金律「自分にしてほしいことは人にもしなければなならい」と
孔子の「自分がされて嫌なことは人にしてはならない」は、その積極性と消極性も、もちろん異なりますが、
考え方の最初に自分が入っているのか、他者が入っているのかの違いではないか、と思います。
前半部分を英語のSVOに直してみます。
孔子の方は、「他者が私にした嫌なことは人にしてはいけない」となり、「自分が他者に望むことは人にもしなければならない」となります。
こう書くと、主語と目的語が全く異なっていることがわかります。興味深い。
最初に自分がどう思っているかどう行動しようとしているか考えるのが、あるいはそう世界を見るのが英語で、自分からと他者から見える世界で表現するのが日本語なのかもしれません。ちなみにイエスも孔子も英語話者でも日本語話者でもないんで、あくまで西洋の文化と日本という考え方です。
繰り返しになりますが、横断歩道を渡るときに、自分が渡りたい、もしくは自分だったらはっきり意見を表明してほしい、と思うから
私は誰からも見えるようにはっきりと高く手を上げます。