ちゃんとかなで変換してます。「かける」です。まあホントはエックスの回ですが許してください。
まあそもそも演劇はかけ算なんです。
例えば僕の代表作ジュリエットは恋愛×自立。創作の過程は作家×演出×俳優ですし、他の人の考えや感覚を掛け合わせて、一人の想像力や創造性が二倍三倍になっていきます。
でも今回は少し抽象よりの話です。
数学の×ってよく省略されます。
3aって3×aのことですし、-aって-1×aのことです。
で、今友人に頼まれて少し中学三年生の家庭教師をしています。
彼はこの×があることを忘れてしまいがちです。 (X-3)(X+2)の)(の間に×が入っていることも。
この計算が出来るためには、この数学という言語の常識を理解し覚えて自在に使いこなせなければなりません。そうでないと2X+3Xという計算さえ出来ません。
彼はとても素直ないい子です。計算自体は練習でなんとかなるものですが、全般的に子供たちの、そして社会全体の想像力不足を感じます。
「見えないもの」を見る力。
サン=テグジュペリは「星の王子様」の中で、「大切なものは目に見えない」と言っています。
演劇では観客の想像力を信頼します。
テレパシーで僕の頭の中身をそのまま観客に届けられたとしても、僕はその方法を取りません。
密かに好きだった人、普段は憎まれ口を聞く相手が死闘から生還してきたシーンを今日作りました。
普段より素っ気なくセリフを放ちたいした用もないのに奥へと引っ込みます。
この時僕は、この人を観客からは見えない位置に立たせます。
お客さんにこの人の心境を想像してもらうのです。
僕は作品を創ることで確かに世界中へある意味自分の頭の中身を発信しています。
でも同時に観客に考えてもらっています。
もちろん僕の作品に影響されて、何らかの力を得たり、勇気づけられる人がいるかもしれません。それは素直に嬉しいです。
逆に悪影響を受ける人も万一いるかもしれません。
誤解してこいつは不道徳なやつだとか冷血なやつだとか思われるかもしれません。
それでも、僕は観客が考える自由、感じる自由を奪いたくありません。何かの考えを押し付けたり、洗脳したりするのではなく、自由な想像力をフルに発揮して、自分たちの人生に戻った時に、より良い決定を下せるように。大前提として自分と他人は違っていて、決して同じように感じたり考えたりするものではないということを知らせたいです。
演劇が死ぬ時は想像力が死ぬ時だとまでは思いません。
でも、想像力が消えるとき、演劇の観客もまた0になっているでしょう。
最近の「演出家の眼」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事