聖書の言葉に,「心はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる。だれがこれを知りえようか」とあります。
C.D.F.のワークショップの最初に、スタニスラフスキーの「俳優術」の最初に出てくるようなエチュードをやります。
「待つ」「出会う」というタイトルをつけています。
CDFでは、具体的に日曜日の昼下がりの公園と設定して、上手から一人そこで「待つ」人が現れ、
次に下手から、また別の「待つ」人が出てくるのです。
自分の身体と心が「待つ」と言う状態を作るのに専念してもらいます。
ルールとして言葉や腕時計を見たりする説明的な「待つ」演技はなしにします。
2人は全くの他人です。
そして、次にやる「出会う」のエチュードでは、同じことをやりながらお互い相手役を意識し、“舞台上にいる”ことに専念します。
つまり、そこで「出会う」相手役や音や景色やにおいやモノに対して、素直に感応し、リアクションして行きます。
観ている人たちに、どんな風に見えたか、誰を待っているように見えたか、2人の間に何が起こったかを聞いてみます。
すると、不思議なことに、やっている人たち(舞台上にいた人たち)が思ったことがそのまま伝わっていることのほうが多いのです。
あるいは、観客なりに想像を、妄想を進めて面白いドラマが生まれていることもあります。
僕の興味は今、この「心の動き」「コミュニケーションの現場で何が起こっているのか」をいかにして観客に伝えうるかにあります。
何よりも心=Heartという不可思議なものに、今取り組もうとしている戯曲「チェロとケチャップ」(金明和作)を読み込んでいくほどに取り付かれていっています。
2006年の最後の仕事「ハーフ」と言う公演では、副題に[Where the heart will be]とつけていたように、もともと心理的な方向に興味がいっていまして、漠然とコミュニケーションへの興味という話をしていたのですけれど、「チェロとケチャップ」に出会ってより興味が明確になっています。
この作品はざっくり言うと、手を怪我してチェロを弾けなくなったチェリストの男と、普通の銀行員でショッピングが好きな感じの普通の女の子の話です。
この生き方や生活スタイル、価値観にいたるまで違う二人が同棲し、別れ、その後、その思い出を2人が別々に語る形で戯曲は展開します。
ちょうど山口浩章さんが、文化芸術会館で一昨年に2つの戯曲を重ね合わせて創られた作品を想起させるのですが、二人の語りがモノローグになったりダイアローグになったりします。
女の思い出す記憶の中の会話や、同様に男の思い出す記憶の中の会話が出てきて、通い合ってるんだか、全然通い合ってないんだかよく分らない会話を交わすのです。
この戯曲の面白みは、2人の記憶がすれ違うことにあります。
出会いの記憶からして、2人の記憶は季節感さえあいまいで、お互いが言ったせりふや感情さえ、どちらのものだか計り知れないのです。
男の声が、チェロの声のようで好きだといったのは、きっと女のはずだが、女はチェロの音は嫌だといい、
ケチャップが好きで、その色である赤も好きなのは女だったはずだが、男も赤が嫌いだといったりケチャップが好きだといったり。
記憶の中の相手なのだから、好きに捻じ曲げられている可能性はあるのだけれど、考えていくうちにそもそもが捩れていたのかもしれないと思い出しています。
相手が例えば赤が好きなら、自分はそんなに好きでなくとも赤が好きになっていくことってありますよね。
相手が好きな音楽とか料理とかも。
私たちも居酒屋で料理を頼む時に(例えば前の彼女が食べられなかったりした場合)「あ、半熟卵を頼んでももう良くなったのか、ユッケも食える」みたいなことを思ったりすることがあるかもしれません。
つまり好みが捻じ曲がると言うとおかしくて、共有のものになる場合が多くの場合あるのではないかと思うのです。
相手の好みに合わせて、時には無理を押して(でもそれはいやいやながらではなく)相手の意図に沿う心の動きがあると思うのです。
ときにはそれに対して、いわゆる「愛が重すぎる」とか、「頑張ってくれること自体が辛い」みたいなことになって、それ自体が別れの原因になったりすることもあって、それはどこかで何かがすれ違ってしまった結果で・・・。
また、別れてから相手にもらったものや思い出のあるもの、特に手紙や写真のたぐいなど(現代ならEメール)を処分するのも、
実はこの記憶自体をデリート(削除)したいのかもしれません。
一緒に時を過ごしたことで変わった心の動きの記録=記憶を、0にしてしまう事で分かりやすく新たなステージに戻ると言うか、元の自分に戻ると言うか・・・。
でも元の自分ってじゃあ何?ということになるのです。
つまり記憶を捨てたくない場合、もっと正確に言うと、「別れても失恋せず、片思いし続けた」場合、つまり今回取り組む戯曲のように、ずっと相手のことを思い出し、思い出の品々も特に捨てるでもなくそのままにして、彼もしくは彼女のことを愛し続けた場合は、どうなるのだろう。
彼女が今も心の中に住み続けているのなら、むしろその、無理を押して(でもそれはいやいやながらではなく)相手の意図に沿った自分の心が、やはり真実の自分になるのではないだろうか。(しかし彼女にとっては既にそれは彼自身ではなくなってしまっている。彼女にとっては赤が嫌いなのにケチャップを好きになり、チェロを弾きたいのに彼女のためにチェロを弾かなくなってしまう彼は、しんどいのだ)
と、すると、「そもそも自分とは何か」「自分を自分として成立させているものは何なのか」というアイデンティティー(自己同一性)の問題に進んでいくことになるのです。
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