のんびり歩こうよ 亀さんみたい

70歳も半ば近くになって、後は神仏の御心のままに。
ゴールはきまっているのだから、のんびりゆったり 日々を大切に。

兄弟姉妹は他人の始まり

2023-11-09 19:39:11 | 人間関係

兄弟姉妹は他人のはじまりとは耳にしていたが

我が身の事になるとは・・・・。

姉夫婦は今年80歳

兄夫婦は77歳・・・とお陰様で元気ですが

私は60歳の時に故郷から飛び出し

この里山に住んでいる。

 

跡取り娘の母は64歳で逝った父亡き後

まだ33歳の兄に頼りきって

事実上の家主扱いだった。

父40歳半ばで軽い脳梗塞になり

労働が難しくなったとき

母が親から受け継いだ土地に借家を建て

家賃収入で生計を維持していたが

その借家も劣化し、設備もそぐわなくなったので

母は建て替えを提案したが

銀行マンだった兄は反対していた。

姉も私も苦しいながらも子育て中なので詳細に口出しはしない。

やがて兄が60歳の頃 支店長までは昇進したが

団塊世代でそれ以上の昇進は頭打ちとなり

給料を下げて、銀行に留まるか?

他社に出向して高給を得るかの選択を迫られた。

兄は後者を選んだが、仕事は人事部のリストラ係だったようで

流石に耐えられず早期退職をせざる得なかった。

 

そして、あれだけ母の提案に反対していた兄が

古くなった借家を壊しマンションを建てると言い出したのだ。

母も80歳を過ぎ、兄は相続税対策も有って

母の名義で4億の借り入れをしマンションを建てる計画を始めた。

当初、姉と私にマンションの1室を与えるから

好きなコーディネートをするようにと言っていた。

しかし、地鎮祭が終わった後、姉と私は別々に兄に呼ばれ

賃貸マンションの一部だけ相続は出来ないと

会計士が言っているので、家賃を取ると言い始めた。

又、母名義での借り入れには高齢の為相続人が連帯保証人になると言う。

 

パソコン打ちの相続試算表には会計士の氏名も印も無い

兄の手作り相続分割試算に過ぎない。

姉と私を同時に呼ばない事にも疑問を感じていた。

 

私は体調を壊し始めていたので退職も時間の問題。

マンション入居はしないと宣言し、故郷から離れた。

 

実に醜い人間の本性を視る羽目になった。

マンションが出来た時は最新の設備で直ぐに満室となったが

姉の住まい以外 全部西むきの部屋であり

近隣にもっと安価なマンションが立ち並び始めた。

多分25年か30年返済のローンであると思う。

もう築21年になり修繕等の出費も嵩んでいるだろが

兄は健康ではあっても間もなく80歳を迎える。

息子は40歳半ばで独身、結婚する意志は全くないらしい。

IT企業の派遣社員で出向先が変わったり

在宅ワークになったりしているようだが親の脛で食べている。

身内ながらけして兄亡き後を告げる器ではない。

娘は離婚し男の子を一人設け これまた親元で食べている。

孫はやっと中学生だ。

 

最近私がそろそろ・・・と写真等の整理をして気付いたが

母が祝い事に来ていた着物やワンピース、宝飾品が

形見分けの時に全く見かけていない。

今更 どうでもいいが、兄嫁(非相続人)か姉が保有しているのだろう。

 

こういう場面に遭遇する前に私はこの世から去りたいと思った。

ゴルフ場の会員権

茨城の別荘

優良企業の株 等 兄名義になって居たが

母が出資したものだと知っているから

兄も 泣き言を言えない立場にある。

兄夫婦、独身の長男、子連れの長女の洗濯・食事を

兄嫁がまだ世話して 実家は道具で溢れているから

たま~に私が行っても仏壇に手を合わせるだけで

従妹のところか?ビジネスホテルに泊まっている。

 

最近知ったのだが、

母は私が帰って来ても良いように

マンションの4階を姉と同じ3LDKで残してあった。

何と 貸出家賃が19万~21万円にはびっくり。

築21年の旧式となった設備の部屋をこの価格で借り手は居ないだろう。

それでも、一度たりとも、姉も兄も私に帰って来いとは言わなかった。

 

私も尽く恩着せがましく頭を押さえる姉・兄の近くに住もうとは思は無い。

今の住居は畜40年だが 南東向きで

鉄筋の県営住宅で障害者割引適応で9200円

更新なし

2dkで一人ですむには十分な所だ。

あと数年ここで 四季の山景色を堪能しながら

のんびり 年金の範囲で暮らして終わろうとおもっている。

親あっての故郷と今 感じている

姉より、兄より先に終わりたい。

見たくないものが 多すぎる世間に嫌気がさしているのです。

 

 

 

 


忘れていたのに…心無い兄家族

2023-10-27 17:32:54 | 人間関係

もう15年近く前の事で忘れていたはずなのに、

急に嫌な思いが胸を締め付けてきた。

 

母が肺ガンと判り…しかしもう89歳。

ドクターの説明を聞き私達子供達で辛い検査や治療は受けず

在宅で看取ることにしたのです。

母にはガンとは言わず、

「肺炎の悪化で、お医者さんと看護師さんが往診に来てくれるよ」と

住み慣れた家で、庭木や花の見える所に介護ベッドを置き

家族と同じ物を食べる生活をしていた。

私は毎月 3~4日泊まる支度をして母のベッドの下に寝る。

私自身 幾つもの不調を抱えての事なので通院の合間をぬっての訪問です。

私が出向いた時に 兄嫁には自分の用事をして貰い、

母が食べたい物を作る為に 食材を予め買い置きして貰う。

そんな日常を過ごしていた時、

入院していた兄嫁の父親(長野県)が亡くなったとの連絡があったようだ。

兄嫁は三姉妹の長女で、シングルの妹が両親と同居していたが

事あれば、長女として仕切る。

 

兄家族は急いで身支度をして長野へ車を走らせたようだ。

兄嫁が 実家の近くに住む姉夫婦にも、二人で葬儀に来て欲しいと言ったようです。

 

独り残された母から私に電話が来たので急いで支度をして実家に向かったのです。

着替え等は宅急便で翌日着です。

独り残された母の顔は血の気を失っていたが、私の顔を見て落ち着き始めました。

 

3日程して、兄家族が戻ってきました。

30歳後半の甥は帰ってくるなり、テレビにカメラを繋ぎ葬儀の写真をワイドで見始めている。

御坊様が何人来たとか、花輪が何基だったとか・・・は話している。

そこに兄嫁が入って来た。

疲れているのは分かるが 母や私に留守をねぎらう言葉は一言も無い。

 

テレビに映る葬儀の写真・・・ご遺体が炉に入って行くところが映し出していた。

思わず私は 「やめて~」と叫んでしまった。

母は肺がんをモルヒネ服用で緩和しているだけで余命は知れている。

私は 心身共に障害の身で、完治しない事は分かって薬を飲んでいる。

過去には、生きる気力を失い自死行為を経験している。

そんな母と私の 近い将来を暗示するような 火葬での写真に胸が苦しくなった。

 

母は、甥に写真を止めるように静かに諭した。

 

兄嫁は、大事な写真なのよ!と半分怒りを含んだ言葉で遮ったのです。

ところ変われば・・・で、

長野県では火葬場の様子まで写真に残す習慣が有るのかもしれないが

私は耐えきれなかった。

末っ子で、シングルで、貧しい暮らしをしている私を葬儀の知らせは無用と思っての事か?

兄家族が帰宅して、立派な葬儀だった話に盛り上がっているが

母の電話で駆けつけて、母と二人冷蔵庫に入って居る食材で留守を守った事など

どうでも良いような空気だったので、私は荷物を纏めて宅急便に託した。

母がタクシーで帰れと握らせてくれたお金で 自宅迄約1時間の夜道を帰って来た。

悲しかった。

母も私も、皆よりずっと早く 白い棺に入り鉄の扉の炉の中で骨になる事を

労わる心が無いどころか、

家族旅行でもして来たかのように、花が・・・とか、 料理が・・・とかで

盛り上がっている兄家族の 平和さが・・・悲しかった。

 

もうとっくに忘れていたと思っていたのに

ふいに過去の出来事が フラシュバックした。

早く忘れよう。

母はその半年後の深夜安らかに旅立った。穏やかな顔だった。

私は、いつ行くのだろう。

自活できる時間には限りがあるから、

出来る事なら 母の様に 深夜眠ったまま旅立ちたい。

 

 


秋が急ぎ足で・・・

2023-10-05 18:57:44 | 人間関係

あんなに暑くて イライラしていた9月が過ぎると

カレンダーの1枚を切り取るように秋が来た。

 

まだ陽に当てて無い冬用の掛布団を取り出し足元に置く。

夏用のTシャツを洗い仕舞い支度。

 

私に頭の中を何かか通り抜けて行く。

季節は人生その物?かも知れないって考え。

 

暑さを目の敵にしていたのは

エネルギーを持て余す若かりし頃と同じかも知れない。

 

尖ってみたり、燃えてみたりの時代がずっと続くと思っていたら

突然、疲労感が襲って来て、

自分がそう若くない季節を歩いていると知る。

 

時々、深い雪に埋もれて息絶える日を想像する。

それが私の潜在的理想なのかも知れない。

今迄幾度となく入院をし、手術を経験した。

手術台には自分で上がり横たわるが数秒の内に看護師らが首の所に間仕切りを作り

両手、両足が拘束されて、やがてス~と眠り落ちるので

医師の呼びかけで薄っすらと眼を覚ました時は

もう何時間も経っていて手術が終わっている。

その時が一番幸福感に浸っているのです。

もしかして、息絶える時もこんな感じ?

・・だったらいいな~と思う。

医療事故で苦しい恐ろしい事も経験した。

アナフィラキシーショック!!

頭は覚醒しているのに息が出来ない。

声が出せない。手も足も動かない。

全身の力を込めてナースの白衣の裾を掴み引く。

周囲の話声は聞こえるのに

私は苦しさを伝えるすべが無く意識が遠のいた。

この時、私は生きたいと強く思っていた。

 

今は秋、間もなく木枯らしの季節が来る。

私の体力も同じように移り行く。

でも 生きる事に執着はない。

穏やかに、枯れ葉の様に散って行く事を

心に決めている。

 

さあ、そろそろ 冬支度。

着古した衣類は始末して、

手作りの吊るし雛もこの手で供養しよう。

そんな想いにしたる季節に今私は足を止めているようです。

 

 

 

 


人生 第3章がはじまる。

2023-10-03 14:06:49 | 人間関係

末っ子の私は深読みするタイプでは無かったので、

流れのままに、

ちょっと不合理?・・・と思う事は多々あってもその波に乗って生きて来ました。

いろんな事が有っても、「因果応報」の心情が支えだったのかも知れません。

時は流れ33歳で子供2人を連れて離婚しました。

話がこじれて調停へ。8カ月掛かりました。

その間、子供は転校し、私は保険会社に勤務しました。

 

氏をどうしよう・・となった時

子供が年度の途中で氏が変わる事のリスク・・イジメ!!

名刺を持って学校の共済の営業をしている私の

「どうしたの?」の質問攻めを想像する時、

リスクを最低限にするために夫の姓を名乗り続ける事にしました。

 

まだ若い弁護士は

実家に戻らないんですか?

どうして嫌になった夫の姓を使うんですか?などなど・・

そのたびに目を丸くして

「えぇ・・そういうもんなのですか?」と驚いた。

子供を連れて戻る実家は もう兄夫婦の物なのに・・。

姉夫婦は、母の所有する借家が空いているので

私を呼べば!と言ってくれたようだが

母も兄夫婦も答えなかったと 大分経ってから耳にはいりました。

 

もちろん、長期間、母や兄夫婦のお荷物になる気は初めから無いが・・

早々に就職したのは、私に子供を養育出来る力が有る事を

示せないと親権、

養育権が取れないと弁護士から言われていたからです。

 

母は、世間体を憚って、

  出戻り娘を近くにいて欲しく無いとは明らかでした。

跡取り娘の母は外で働いた経験も無く、

舅・姑の関係を経験したことも無く

家賃を払って食べて来た事も無く

たどれば、近所は皆親類という町という中で

代々続いた商家のメンツの方を優先したのです。

母は老いては子に従い

寡婦になったら長男が家長であるも当然という

古い感覚を優先するタイプだったのです。

鼻っぱしは強くとも 

根は弱く兄に物言えぬ人だったのでしょう。

 

 

私にはどうでも良い事なのです。

婚家を出ると決心した時から、分かって居た事だからです。

こうして・・・私の人生 第3章が始まりました。


長男の嫁 ③

2023-09-23 17:27:54 | 人間関係

私が嫁いで直ぐに実家は二世帯住宅に立て直した。

父が50歳半ばで軽い脳梗塞を患い、船宿を続ける事が困難になった事もあるが、

母は跡取り娘で不動産等は母の名義であり、入り婿だった父は家業が継続できなくなれば

母の計画をあからさまに反対も出来ない立場のようであった。

兄は某信託銀行に勤め貸付担当という立場、バブル期とあって

顧客からの付け届けで実家の廊下は塞がるほどだったから、

実家は母と兄とで何事も決まっていった。

新居が建ち、親戚一同が集まった。

兄嫁は 都内国立で歯科医院をしている伯父の所で 歯科衛生として勤めていた頃

兄が患者として出会ったようだ。

3人姉妹の長女でしっかりしている雰囲気はあったが

親族一同を接待するその姿は すでに若女将を思わせる身動きだった。

私は実家を離れた者、指図されるがままに御勝手で食器洗いなどしていた。

 

兄嫁は腎臓が余り良く無かったようで 長女は8カ月の早産だった。

赤子は3カ月保育器に入っての治療、母体は4カ月の集中治療で

其の頃は、ドクターに札束を握らせるのがまかり通っていたので

母は、いくらとは言わなかったが、

兄の長女の事を事あるごとに「金で買った命だから」と言い、

くしゃみをしても大学病院に駆け込んで育てていたのを私は遠目に見ていた。

私は同じ年の長女を産んだが、ミルク代にも事欠き、3カ月目には離乳食を食べさせていたので

同じ干支の娘でも天と地の差の養育に 占いなど信じないと唇を噛んでいた。

 

私には妙な六感?が昔からあった。

 

兄の長女の初節句の宴で、 父が何時になく苛立ち幼い私の娘に手を挙げようとした。

私は父を突き飛ばし、私の平手で娘の頬を叩いた。

鼻血が一筋流れ、それまで騒がしくしていた娘が声を呑んだ。

娘を背負い、オムツや着替えの入った袋を持って私は実家を後にした。

誰かが、私を呼び止めているようだったが、振り向きもせず駅に向かい

2時間近くの道程を泣きながら 夜道を歩いた。

 

夫は未だ帰宅していなかったので、冷たい娘の足を擦り、

1つ布団に娘を抱えて、その日の出来事を振り返っていた。

 

翌日、母から電話があり 引き出物や赤飯を父に持たせて行かせたから・・・

駅から電話をすると思うから迎えて欲しいとの事だった。

私が 父の余りの形相に 我が娘を平手打ちをし泣きながら飛び出した後

皆が父に「赤子の鳴き声に苛立つなんて大人げない」と攻め立てたようだった。

 

父が着く時間を見計らって昼食を用意していると、電話が来たので

工場で仕事中の夫に、車で父の迎えを頼んだ。

 

私と父は特別話もせず、事情を知らぬ夫が昼食を済ませると

駅まで父を送って行った。

 

父が我が家に来たのは

私が嫁いでから最初で最後のことだった。

それから間もなく(一月もせず)父の身体に異変があり

大学病院で手術・入院となった。

ドクターは気を持たせる説明をくりかえすが、既に末期癌で

7回の手術、保険外の抗がん剤など手をつくしたが

1年3カ月で命の灯は尽きて消えたのです。

 

軍隊上りで命令口調の父が、初節句の赤飯と引きで物の風呂敷包をぶら下げて

独りで、私の住まいに電車を乗り継いでくる事などあり得ない事なのに

父と私は無言だったが、昼食を共にした 不思議な日の想い出が

50年もたった今でも 思い出すと 胸が焼け付くように痛み悲しいのです。

父と私にしか分からない 永久の別れの前触れだったのです。