のんびり歩こうよ 亀さんみたい

70歳も半ば近くになって、後は神仏の御心のままに。
ゴールはきまっているのだから、のんびりゆったり 日々を大切に。

コロナとの晩夏

2023-09-27 05:37:30 | 闘 病

9月ともなれば早秋とかくべき季節だが

今年は まさに晩夏の暑さでした。

11日に医療センター受診後、疲れを感じ夕飯もそこそこに床についてしまったが

翌朝、寝汗びっしょり、頭ふらふらで

いつも枕元に用意してある体温計を加えると

40度近くまで上がっていく。

一度は起床し水を飲み・・・またベッドに。

食欲無し! 思考力無し!

午後になったら熱が下がった。

幸いとばかり、シャワーを浴び着替えをして

何某かの食事をとるが味が妙?

甘味も塩味も感じず、苦味だけ。

こんな時間を3日程過ごして近所のクリニックに電話をした。

 

私は幾つもの難病と言われる疾患を抱えて、多量の薬を服用しているので開業医の敵らしい。

この里山の町に着て13年が過ぎたが、

風邪らしき発熱等で開業医を受診しても

お薬手帳を見るなり「掛かりつけ医(大学病院)に~」と返された事数回。

救急車を呼んでも、受け入れまでに3~40分の待機で

ご近所さんの人だかりで大変な事数回。

 

そんな経験から様子見をしていたが、

幸い今回はクリニックの外のベンチで抗原検査をしてくれて

コロナと判明、解熱剤、整腸剤、トローチが出された。

 

掛かりつけの大学病院のOBドクターのクリニックが幸いだったようです。

 

その後、約10日間の自宅療養。

規定では5日らしいが、味覚障害でまともな食事が出来ず

水分と手つくりシャーベットとしか美味しく感じない。

当然ヘルパーさんは支援に入れないので、

冷凍庫に買いだめしてある食品を

レンチンしてほんの少しお腹に入れるが

残りは廃棄。

 

時間の感覚も無くなって

妙な夢を次々とみる。

蒸し暑さと発熱で着替えをするので

洗濯物は 小まめに固唾けておいた。

 

もしも・・・を考えると

寝室を乱雑にしておくことが憚れるのです。

 

何時になく長~い2週間を経験しました。

変異株コロナがでたら、今できた抗体は役立たないのかな?

又、罹患するのかな?

 

何十年ぶりの高熱で3kg程体重がへりました。

未だ味覚異常で食事は義務で摂っている感じ。

 

忘れられない晩夏が過ぎて行きました。

 


長男の嫁 ③

2023-09-23 17:27:54 | 人間関係

私が嫁いで直ぐに実家は二世帯住宅に立て直した。

父が50歳半ばで軽い脳梗塞を患い、船宿を続ける事が困難になった事もあるが、

母は跡取り娘で不動産等は母の名義であり、入り婿だった父は家業が継続できなくなれば

母の計画をあからさまに反対も出来ない立場のようであった。

兄は某信託銀行に勤め貸付担当という立場、バブル期とあって

顧客からの付け届けで実家の廊下は塞がるほどだったから、

実家は母と兄とで何事も決まっていった。

新居が建ち、親戚一同が集まった。

兄嫁は 都内国立で歯科医院をしている伯父の所で 歯科衛生として勤めていた頃

兄が患者として出会ったようだ。

3人姉妹の長女でしっかりしている雰囲気はあったが

親族一同を接待するその姿は すでに若女将を思わせる身動きだった。

私は実家を離れた者、指図されるがままに御勝手で食器洗いなどしていた。

 

兄嫁は腎臓が余り良く無かったようで 長女は8カ月の早産だった。

赤子は3カ月保育器に入っての治療、母体は4カ月の集中治療で

其の頃は、ドクターに札束を握らせるのがまかり通っていたので

母は、いくらとは言わなかったが、

兄の長女の事を事あるごとに「金で買った命だから」と言い、

くしゃみをしても大学病院に駆け込んで育てていたのを私は遠目に見ていた。

私は同じ年の長女を産んだが、ミルク代にも事欠き、3カ月目には離乳食を食べさせていたので

同じ干支の娘でも天と地の差の養育に 占いなど信じないと唇を噛んでいた。

 

私には妙な六感?が昔からあった。

 

兄の長女の初節句の宴で、 父が何時になく苛立ち幼い私の娘に手を挙げようとした。

私は父を突き飛ばし、私の平手で娘の頬を叩いた。

鼻血が一筋流れ、それまで騒がしくしていた娘が声を呑んだ。

娘を背負い、オムツや着替えの入った袋を持って私は実家を後にした。

誰かが、私を呼び止めているようだったが、振り向きもせず駅に向かい

2時間近くの道程を泣きながら 夜道を歩いた。

 

夫は未だ帰宅していなかったので、冷たい娘の足を擦り、

1つ布団に娘を抱えて、その日の出来事を振り返っていた。

 

翌日、母から電話があり 引き出物や赤飯を父に持たせて行かせたから・・・

駅から電話をすると思うから迎えて欲しいとの事だった。

私が 父の余りの形相に 我が娘を平手打ちをし泣きながら飛び出した後

皆が父に「赤子の鳴き声に苛立つなんて大人げない」と攻め立てたようだった。

 

父が着く時間を見計らって昼食を用意していると、電話が来たので

工場で仕事中の夫に、車で父の迎えを頼んだ。

 

私と父は特別話もせず、事情を知らぬ夫が昼食を済ませると

駅まで父を送って行った。

 

父が我が家に来たのは

私が嫁いでから最初で最後のことだった。

それから間もなく(一月もせず)父の身体に異変があり

大学病院で手術・入院となった。

ドクターは気を持たせる説明をくりかえすが、既に末期癌で

7回の手術、保険外の抗がん剤など手をつくしたが

1年3カ月で命の灯は尽きて消えたのです。

 

軍隊上りで命令口調の父が、初節句の赤飯と引きで物の風呂敷包をぶら下げて

独りで、私の住まいに電車を乗り継いでくる事などあり得ない事なのに

父と私は無言だったが、昼食を共にした 不思議な日の想い出が

50年もたった今でも 思い出すと 胸が焼け付くように痛み悲しいのです。

父と私にしか分からない 永久の別れの前触れだったのです。


長男の嫁  ②

2023-09-22 17:47:05 | 人間関係

私の生家には3歳年の兄の妻・・・長男の嫁さんがいます。

跡取り娘だった母にとって 兄は希望の星であり、溺愛の対象だった。

兄が彼女を家に連れて来た時、母は占星術の本を開き 自分と彼女との相性が良いと

それは 大喜びだった。

兄の先輩の方が仮仲人となり、兄・両親・そして何故か?私も共に

信州の彼女の両親の元へご挨拶に出かけた。

 

そして 私は仮仲人さんに、「お兄さん達がご両親と一緒に住むのだから

君も早く独立しないとね・・・」と耳打ちされたがとっさには理解できなかった。

 

21歳の私は、学生の延長上に生き、

大人の恋愛も、ましてや結婚を考えてはいなかったので

美容師の資格を取り勤務していた美容室に住み込みで勤務しなければいけないのか?

そんな事をぼんやり考えていた。

徒弟制度を根強く残す美容師の世界の給料は安い。

御指名のお客様が増えて やっと認められ給料が上がるが

休日には 自腹で講習会に参加して資格を取ったり、

ニューモードヘアーショーに参加したり

着付けの資格に不随して所作を身に着ける為に舞踊やお茶のお稽古にも励むと

殆ど給料は無くなり、アパートを借りるゆとりなど無いのです。

 

悶々とした月日を過ごす中で、仮仲人さんが耳元で囁いた言葉・・・

君も早く独立しないとね・・・の意味をふつふつと肌が感じ取るようになった。

 

やがて兄達は結婚し、当座は母の借家の一つに住んでいたが、私に縁談があると

いつの間にか 実家を取り壊し 二世帯住宅を建てる話が進んでいたのです。

兄達が結婚して半年後に私は嫁ぐ事になったのです。

 

船宿を生業にしていた実家代々の家なので趣もあり、

父が作ってくれた私専用の投網や、

進駐軍がカモ撃ちに来た時に私にくれたセルロイドのアメリカのおもちゃなど

いつの間にか廃棄されれいました。

 

長男の嫁・・・とは 特別の存在なのだと 実感し始めた時でした。

 

 

 

 

 


長男の嫁 ①

2023-09-20 17:05:16 | 人間関係

結婚すると女性の多くは「嫁」と呼ばれる。

兄弟が居れば、特に長男の嫁は 特異な存在である気がする。

長男の嫁が産んだ子は 又特異な存在の孫でもあるようだ。

 

長年続いた 日本の家長制度の名残なのでしょう。

少子化、そして結婚しても子供を産まない選択をするようになった昨今では

やや風潮が変わって来てはいるものの、団塊世代の私達は家長制度を当然と考える親の元で育ち

しかし、少子化で長男・長女の結婚で「家」に縛られない自由を満喫する子供達の狭間で

何となく 割の合わない思いをしているような気がする。

 

私もかつては「長男の嫁」であった。

僅か9年の結婚生活で終止符を打つことになったが、今思い出しても苦い胃液がこみ上げる。

 

夫であった人は、幼少期に両親が離婚し、母親と一緒に東北の里・・実家に戻ったようだ。

里には年老いた祖母と、子供に恵まれなかった伯父(長男)夫婦が暮らしていた。

当時は、子持ちの女性が自立できるような環境では無く、彼の母親は伯父夫婦に彼を預け

観光地の旅館に住み込みで働き、月に一度 給料を貰うと 土産を持って実家に行き

息子と合うのが ライフパターンであったようだ。

 

母親は伯父夫婦を「父さん・母さん」と呼ばせていた。

そこには、兄妹の打算が渦巻いていたようだ。

戦争中、長男である伯父は満州に長い事行っていたので、妹である彼の母親らは

両親と、家業の農業・畜産を手伝いに東京を離れ田舎暮らしをしていたが

終戦後、伯父は満州で結ばれた妻を伴い帰って来た。

伯父は、父亡き後 長男であることを主張し、当然の如く不動産等を自分の名義にし、

親と家業を守った妹家族を東京に返したとの事だった。

その時の恨みつらみを抱えていたので、離婚して里に帰った時、

自分の息子に全てを継承させる心つもりで 伯父夫婦と養子縁組をしたのだ。

 

22歳の私は、産みの母から経緯を聞いてはいたが、若すぎたのか?待ち受けている修羅場を

想像することが出来なかった。

 

東北の養父母は新婚夫婦が住めるだけの部屋を建て増し 私を受け入れてくれたが

夫の本心は東北に帰る気持ちなど毛頭なく、産みの母も常に息子の近くで時には同居していた。

結婚式の準備中、産みの母は、結婚式のご祝儀等を出す事はなかったが

自分が親の席でなければ式には出ないとごね始めた。

 

波乱の始まりであったが、どうにか結婚式を終えた。

夫は電子基板を作る町工場を友人と営んでいたが、収入は不安定で生活は苦しかった。

後々 気付いたのだが特別技術を持たない母親のパート収入で生活が出来る訳はなかった。

夫は、母親の住むアパート代や生活費を私の知らぬところで補填していたようだ。

 

私が子を身ごもっても、給料袋を渡してくれることはなく、つつましい生活の中で出産した。

灯油も買えず暖房はコタツだけ、

近所の農家さんで搭の経ったほうれん草や形の悪い芋を頂く事は日常であった。

50kgあった体重が出産後43kgになっていた。

母乳が出ない私に十分なミルクを買うお金は無く、

3カ月にも満たない赤子に味噌汁の出汁で焚いたお粥を与えていた。

 

そんな時期に、東北の養父がお金を送って来るよう再三の催促が来た。

現金を送って来なければ、不動産を売り払って 一文も残さないと度々言って来る。

実母も夫も「脅し」と受け取っていたようだが、 

十数年後養父亡き後 葬儀に帰った元夫が観たものは

山や畑などは見ごとに現金化し食いつぶし、養母はすでにどこかに消えた空屋だけのようだ。 

(その頃 夫の不貞と暴力に見切りをつけ 長男・長女と新たな生活を始めていた)

 

産みの母も、夫であった人も 全て計画が壊れ、当てが外れ

事業も倒産し どん底を生きていると風の噂に聞こえてきた

 

 


まさかの・・・コロナ

2023-09-17 16:15:27 | 闘 病

先週の月曜日は市内の医療センターの受診でした。

帰って来た時 妙に疲れていて、夕飯もそこそこに寝てしまったのですが

翌朝目が覚めると 鉄板の上に寝ているような身体の痛みと熱っぽさで身動きが出来ず

体温計を加えると 38.6度もある!!

木曜日にヘルパーさんが来るまでの記憶が曖昧だけど

ヘルパーさんが来る前に 検温すると38度は確実。

玄関の鍵を開けて テーブルの上に買い物のメモを置き

ベッドに潜りこんでいました。

ヘルパーさんは手慣れたもので余計な会話をせず、買い物とキッチンの洗い物をして帰りました。

 

ウトウト・モヤモヤしながら、起きられる時は冷蔵庫を開けてみるのですが

味覚が可笑しくなっていて、何もかも不味く感じます。

土曜日になって 

これは只の風邪ではなさそう!!この後連休だし~と・・

近くのクリニックに電話をすると、

「タクシーでおいで下さい。着きましたら院内に入らず

外のベンチからお電話下さい」と指示がありました。

 

指示通り伺い電話をすると間もなく防護服を着たドクターとナースが

鼻の孔に試験紙を差し込んで すぐに

「コロナです」だって!! 5回のワクチンをしてあるのに

まさかのコロナ!!

解熱剤、整腸剤等々すぐ裏の薬局から持って来てくれたので

半分虚ろな頭で了解し、又、タクシーで帰宅です。

 

ケアマネさんにメールし、必要各所に連絡をたのみました。

5日間は他者と接触禁止

それ以後 まだ改善されなければ 膠原病で掛かっている大学病院に行くように指示がありました。

 

今日で5日が過ぎ解禁日だが

微熱、食欲不振、倦怠感ありです。

明日の状態を観て、それからにしよう・・・

 

コロナが流行ってもう4年目になるのに

なんで今頃?