のんびり歩こうよ 亀さんみたい

70歳も半ば近くになって、後は神仏の御心のままに。
ゴールはきまっているのだから、のんびりゆったり 日々を大切に。

長男の嫁  ②

2023-09-22 17:47:05 | 人間関係

私の生家には3歳年の兄の妻・・・長男の嫁さんがいます。

跡取り娘だった母にとって 兄は希望の星であり、溺愛の対象だった。

兄が彼女を家に連れて来た時、母は占星術の本を開き 自分と彼女との相性が良いと

それは 大喜びだった。

兄の先輩の方が仮仲人となり、兄・両親・そして何故か?私も共に

信州の彼女の両親の元へご挨拶に出かけた。

 

そして 私は仮仲人さんに、「お兄さん達がご両親と一緒に住むのだから

君も早く独立しないとね・・・」と耳打ちされたがとっさには理解できなかった。

 

21歳の私は、学生の延長上に生き、

大人の恋愛も、ましてや結婚を考えてはいなかったので

美容師の資格を取り勤務していた美容室に住み込みで勤務しなければいけないのか?

そんな事をぼんやり考えていた。

徒弟制度を根強く残す美容師の世界の給料は安い。

御指名のお客様が増えて やっと認められ給料が上がるが

休日には 自腹で講習会に参加して資格を取ったり、

ニューモードヘアーショーに参加したり

着付けの資格に不随して所作を身に着ける為に舞踊やお茶のお稽古にも励むと

殆ど給料は無くなり、アパートを借りるゆとりなど無いのです。

 

悶々とした月日を過ごす中で、仮仲人さんが耳元で囁いた言葉・・・

君も早く独立しないとね・・・の意味をふつふつと肌が感じ取るようになった。

 

やがて兄達は結婚し、当座は母の借家の一つに住んでいたが、私に縁談があると

いつの間にか 実家を取り壊し 二世帯住宅を建てる話が進んでいたのです。

兄達が結婚して半年後に私は嫁ぐ事になったのです。

 

船宿を生業にしていた実家代々の家なので趣もあり、

父が作ってくれた私専用の投網や、

進駐軍がカモ撃ちに来た時に私にくれたセルロイドのアメリカのおもちゃなど

いつの間にか廃棄されれいました。

 

長男の嫁・・・とは 特別の存在なのだと 実感し始めた時でした。

 

 

 

 

 


長男の嫁 ①

2023-09-20 17:05:16 | 人間関係

結婚すると女性の多くは「嫁」と呼ばれる。

兄弟が居れば、特に長男の嫁は 特異な存在である気がする。

長男の嫁が産んだ子は 又特異な存在の孫でもあるようだ。

 

長年続いた 日本の家長制度の名残なのでしょう。

少子化、そして結婚しても子供を産まない選択をするようになった昨今では

やや風潮が変わって来てはいるものの、団塊世代の私達は家長制度を当然と考える親の元で育ち

しかし、少子化で長男・長女の結婚で「家」に縛られない自由を満喫する子供達の狭間で

何となく 割の合わない思いをしているような気がする。

 

私もかつては「長男の嫁」であった。

僅か9年の結婚生活で終止符を打つことになったが、今思い出しても苦い胃液がこみ上げる。

 

夫であった人は、幼少期に両親が離婚し、母親と一緒に東北の里・・実家に戻ったようだ。

里には年老いた祖母と、子供に恵まれなかった伯父(長男)夫婦が暮らしていた。

当時は、子持ちの女性が自立できるような環境では無く、彼の母親は伯父夫婦に彼を預け

観光地の旅館に住み込みで働き、月に一度 給料を貰うと 土産を持って実家に行き

息子と合うのが ライフパターンであったようだ。

 

母親は伯父夫婦を「父さん・母さん」と呼ばせていた。

そこには、兄妹の打算が渦巻いていたようだ。

戦争中、長男である伯父は満州に長い事行っていたので、妹である彼の母親らは

両親と、家業の農業・畜産を手伝いに東京を離れ田舎暮らしをしていたが

終戦後、伯父は満州で結ばれた妻を伴い帰って来た。

伯父は、父亡き後 長男であることを主張し、当然の如く不動産等を自分の名義にし、

親と家業を守った妹家族を東京に返したとの事だった。

その時の恨みつらみを抱えていたので、離婚して里に帰った時、

自分の息子に全てを継承させる心つもりで 伯父夫婦と養子縁組をしたのだ。

 

22歳の私は、産みの母から経緯を聞いてはいたが、若すぎたのか?待ち受けている修羅場を

想像することが出来なかった。

 

東北の養父母は新婚夫婦が住めるだけの部屋を建て増し 私を受け入れてくれたが

夫の本心は東北に帰る気持ちなど毛頭なく、産みの母も常に息子の近くで時には同居していた。

結婚式の準備中、産みの母は、結婚式のご祝儀等を出す事はなかったが

自分が親の席でなければ式には出ないとごね始めた。

 

波乱の始まりであったが、どうにか結婚式を終えた。

夫は電子基板を作る町工場を友人と営んでいたが、収入は不安定で生活は苦しかった。

後々 気付いたのだが特別技術を持たない母親のパート収入で生活が出来る訳はなかった。

夫は、母親の住むアパート代や生活費を私の知らぬところで補填していたようだ。

 

私が子を身ごもっても、給料袋を渡してくれることはなく、つつましい生活の中で出産した。

灯油も買えず暖房はコタツだけ、

近所の農家さんで搭の経ったほうれん草や形の悪い芋を頂く事は日常であった。

50kgあった体重が出産後43kgになっていた。

母乳が出ない私に十分なミルクを買うお金は無く、

3カ月にも満たない赤子に味噌汁の出汁で焚いたお粥を与えていた。

 

そんな時期に、東北の養父がお金を送って来るよう再三の催促が来た。

現金を送って来なければ、不動産を売り払って 一文も残さないと度々言って来る。

実母も夫も「脅し」と受け取っていたようだが、 

十数年後養父亡き後 葬儀に帰った元夫が観たものは

山や畑などは見ごとに現金化し食いつぶし、養母はすでにどこかに消えた空屋だけのようだ。 

(その頃 夫の不貞と暴力に見切りをつけ 長男・長女と新たな生活を始めていた)

 

産みの母も、夫であった人も 全て計画が壊れ、当てが外れ

事業も倒産し どん底を生きていると風の噂に聞こえてきた

 

 


長~い眠りの後で

2023-09-10 16:21:47 | 人間関係

ご無沙汰していました。

長~い眠りの中で、いろんな夢を見ていたような、

良くも、悪くも、思考も行動も停滞している間に 1歳年が増え 74歳になりました。

今年 兄は77歳 姉夫婦は80歳になります。

細やかな手作りの梅干しと新生姜のガリを作り暑中見舞いとして送りました。

兄嫁の母が10年近く認知症の末、老衰で眠り、

兄嫁の末妹の夫が一回り年上だったのですが、やはり認知症で施設に入り 義母を追うように

翌月眠ったようで・・・(内輪でこじんまりと葬儀を済ませたと後で聞いたので)

喪中の最中の祝い事は、さり気なく。

 

私の父は44年前に逝き、母は14年前に逝ったので、 

41年前に子供を連れて離婚した私は 家庭を築き真っ最中の娘と息子と姉と兄が

いわゆる親族だが、 年々 親族の濃さが薄まって行くと感じるのは

私だけだろうか?

用があれば、メールが来る。

私にとって、親族でなければならない用は入院時の保証人の了解を貰う時。

メールやラインは 費用が安く済むが、言葉に心が映らないから、

時に冷たく、時にあざける様にも受け取れるのが怖い。

 

親子も兄弟姉妹も 次第に他人と区別がつかない距離感になって行くのが

今、心に染みてくる。

血の気の多かった年代に、難病を発症しドクターストップを受けつつも

生きる事に執着し、父亡きあとは長男に全てを託した弱い母に苛立ち、

病気とは縁無く生きて来た姉・兄には私の心の痛む叫びが聞こえないのか?

共に通院に寄りそう事もなかった都会の孤独が耐えられなくて

いっそ、身も心も独りである事の緩い生き方を選んでと・・・ この里山に一人やって来た。

これでよかったのです。

何もかも干渉されず、自己責任で生きる事が私らしいと

あらためて確信できたのだから。

子には子の家族ができ、その生き方があるから、それで良い。

 

暑かった夏も去り、里山の朝は涼しい。

もう話題は紅葉の映える滝の事になった。

来月には 古き良き友が訪ねてくれるので、バスで秋色の滝のオーラを受けて来る。

小遣いは互いに無いから、我が家でのんびり食事をして寝る事にした。

口には出さずとも、この四季を愛でる回数がそう多く無い事を私達は知っている。

 

縁・・・大切なものだが、好まざるとも結びつけられた血縁は、時に疎ましい。

我が子達もそうであろうと思うから、今を自由に生きて欲しい。

 

半年近く薄暗く、長いトンネルの中で 生きている実感のなかった私が

今、やっと 意味不明ながら キーボードを押し始めた彼岸前です。

 

 

 

 

 

 


忘れたはずなのに・・・

2023-03-31 19:16:46 | 人間関係

人生 長く生きて来ると、

時々思い出して、ウルウルしたり

           あの時、もしも言えたら・・・とか

           あの人、今どうしてるかしら?今逢えたら・・・

と思える、懐かしい想い出の中にずっと生きている人と

「忘れなくちゃ」

 「絶対忘れよう」 

「きれいさっぱり忘れて,無垢になって終わりたい」・・と

両極端の思いに 胸痛む出来事がいくつかは誰にもあります。

 

今の私は、最初に書いた甘酸っぱい想い出で

時々 胸が苦しいくなることが多いけど

そんな時  想いが叶わなかったから 美しい過去なのねと

一人想い出に浸る事が多いのです。

 

でも「きれいさっぱり忘れて、無垢になって・・・」と

時々 胃が痛くなるような思いがこみ上げてくることもあるのです。

 

どんな理由があっても

どんな辛い目にあっても

いつまでも 人を恨むのは おやめなさいと自分に言い、

良い関係、良くして頂いた事もあるでしょ、

自分も完璧ではないでしょ、

そう 言い聞かせ 又 暫くは 想い出の写真を見る事もあるのに、

 

たった一人 それが出来ない人がいるのです。

その人は他人ではなく 子供の父親 だから・・・・

 

まだ幼なかった長女・長男を夜も昼も体を壊す程働き

慈しみ慈しみ育て独立まで支援してきた子供達に

あの鬼畜のような男の血筋を見る事があるからです。

 

ふと!

似ていると思う時

子供達が 何を考えているのか?

   もう何年も音沙汰無く、体調不良、手術をメールで知らせても

   無言 or   お大事に~  の一文だけ。

私の生きて来た時間を否定され 

突き放されたような震えが走るのです。

 

子供達の父親は私より4歳年上で 職場で出会ったのです。

二十歳の私にはとても大人に見えました。

 

その年、兄が都内の大学近くの歯科医院に通院し

そこで歯科衛生士をしていた彼女との結婚が決まりました。

兄の先輩が仮仲人で信州の彼女の家に結納の品を持って

ご両親に挨拶に行く時、何故か?私も後ろについて行ったのです。

 

宿をとり、結納が終わると、宴がありました。

初めての体験、初めての土地にワクワクする私に、

仮仲人さんが

「お兄さん達が結婚したらご両親とすむのだから、

早く、家をでないとね」・・・とにこやかにしかし言葉は鋭く言ったのです。

 

「そういう物なの?」・・・・呆然としていました。

そういう時期にすれ違った 子供達の父親が 何かの縁に思え

誘われて喫茶店で話をするようになりました。

 

私達の時代は、二十歳を過ぎて異性と二人で逢うと言う事は

結婚を意識しての品定めのようなものです。

仕事の休日が違うので、文通が殆どで、時々食事をする位です。

 

今にして思えば、何もかも分からない人でした。

 

母親は離婚し、長女、次女は父方に、彼だけを連れって

東北の里に帰り、子のいない長男夫婦をとうさん・かあさんと

彼に呼ばせ、養育を託し旅館に住み込みで働いていたようです。

あたかも中居さんのような仕事?を思わせる話でしたが

後に、調理場の賄いさんと知りました。

 

彼が進学を希望した時、後々養父母を看る事を条件に

正式に養子縁組をしたようです。

彼が東京の大学に受かり、上京した時実母も上京し共に暮らしていました。

実母は病院勤めをしていたと言い、医学用語をしばしばつかうので

看護師と思っていたのですが、 個人病院の賄い婦だったのです。

 

彼らは6畳、4畳半の借家に住み 電話はありませんが、車はありました。

私の家族や暮らしとは何もかも違い、判らないことばかりでしたが、

彼からプロポーズがありました。

 

後々、「結婚を前提に・・・というつもりだったが間違って結婚しようと言ってしまった」と。

彼は、今迄付き合って来た女性のイニシャルが皆、Yなんだよね~と。

でも、彼は一度も女性との交際経験はなく、すべて作話でした。

 

長女が2月に出産のときの暮、恒例だからと、一人で東北の養父母の所に

数日間行って過ごしてきました。

そして難産の末長女を産み、夜見舞ってくれたので甘えて彼のてを取ると

「血なまぐさいから」とその手を解き「この次は男の子な~」・・・と

 

2年後 長男が産まれました。

皆、お父さんにそっくり!!!と言えば「似ていない。私の兄似だ」と否定。

 

給料も明細も渡された事は無く、月初めに2万円だし、家賃を払い残りが

生活費なので、「これでいつまで」と聞くと、分からないと答えるのです。

一応 零細企業主ではあり、従業員も徐々に増えてきました。

 

夫婦喧嘩は一度もしたことがありません。

しかし

食事をしながら、日常会話をして、何か気に障った事が有った時か?

無言で席を立ち私の背後に立ち左手で首を絞め

右手の拳で顔が腫れ、口から血が出るまで、殴り続けます。

 

子供が居る前でも・・・・。

意味が、理由がわかりませんでした。

 

そして 私の実家に行き、母に私の至らなさや

ふしだらな作話を聞かせ、

母は何某かのお金を持たしていたようです。

 

いろいろなことがありました。

そして私は子供を連れて飛び出したのです。

忘れたい。

わすれなければいけない。

この子供達には彼の血筋が通っているから

愛さなければ

愛されたと信じなければ・・・・

私は多分、死ぬまで念仏の様に胸の奥で唱えていることでしょう。


息子の誕生日

2023-02-10 03:02:17 | 人間関係

昨日 2月9日は 息子の48歳の誕生日でした。

いつも、2歳年上のお姉ちゃんの後ろを歩いているような

消極的で自分の意見を言わない息子でした。

 

小学校低学年の時、通学に花やの前を通ります。

きっと カーネーションの切り花を見ていたのでしょうね。

そして、小遣いをためていたのでしょうね。

 

母の日に、白い花の入ったポットを一つ私に差し出し

「おかあさんごめんね・・・」と言う。

お花屋さんに行ったら、カーネーションが30円も値上がりして

買えなかった。 花やの叔母さんがこれだったら買えるよって・・

赤いのじゃなくてごめんね。

申し訳なさそうに差し出す息子だった。

優しい息子の気持ちが嬉しくて、白い花のポットを庭に植えたら

3年位、毎年大きくなって 私を喜ばせてくれていました。

 

そんな息子が、一人親家庭で、私の気配りもお金も足りず

高校に入ってから いじめに遭っていたらしく・・・

不登校になり、顔つきが変わってしまったのです。

 

かくれてバイトをし、タバコを吸い、

私にボーイフレンドがいたのですが、

そして 親子の様に仲良くしていたのですが

反発し始め、私と彼とは別れました。

 

進学を希望していた息子。

担任の先生は、進学どころじゃない。卒業さえどうか?だ・・と。

高校3年。私は一人で二人の子供を育てるシングルマザーだったので

早朝から、夜遅くまで働いていたので、

息子は、余り芳しくない学友に絡まれていたらしく

隠れてバイトをしていたお金を巻き上げられていたことが分かり、

又、暴力にも遭い、入院をしたり・・・

私はどうしてよいか分からず、まずは悪友を遠ざける為に

高3年の夏休みに マンツーマンの塾に毎日通わせることにしたのです。

 

大学入学資金の半分を費やしてしまったけど

大学院生の塾講師と馬が合い、そして悪友の誘いからも逃れ

ついに、私学の理工系に受かりました。

 

その後の お金の工面は言うに及ばずで大変でしたが、ひとまず安心です。

 

大学に入り、一人暮らしを始め、やがて友達も彼女も出来て

紆余曲折の末、群馬県で就職し、結婚しました。

とても美人な彼女です。

でも、私が煙たいらしく、

私が入院しても、手術をしても来ることはありません。

 

家庭が円満ならば・・・と自分に言い聞かせていますが、

ここ6年年賀状をだしても 返信が有りません。

4人の子供に恵まれて 家を建てたようですが私を招く事はありません。

 

コロナ禍で生活も大変なのでしょう。

無事でいてくれたらそれで良い。

家族 睦まじく 無事でいてくれたらそれで良いと思っています。