ワイズテキスタイルが設立して10年がたちました。平成16年2月設立なので、10年と3か月。
父が建ててくれたワイズテキスタイル。そして、その1年と3か月後に死んでしまった。いつまでたっても、1番僕の中で大きな出来事です。そしてそれからは、自分で仕事をもらってお客さんとも付き合っていかなくてはならなくなりました。
正直始めの3年くらいは何にも考えていなかった。このまま父が残してくれた仕事をこなしていればいいかと思っていました。父の残してくれた仕事は、テキスタイル大学の学生さんの作品をジャカード織物にして、授業の一環として使ってもらう仕事でした。これは、今も毎年続いています。学生や先生たちの展示会への生地制作も積極的に取り組んできました。
4年目くらいからは少しづつ他の仕事をもらえるように、自分で考えるようにしました。展示会に写真織を出したり、デザイン織りを発表したりしました。そこでデザイン事務所の方や、服地、カバン地のジャカード織の仕事をもらえるきっかけが出来ました。
6年目くらいに、一時期ワイズテキスタイル1番の危機的な経営状態になり廃業しようと決意しました。他所へ就職をしようと職安へ行き求人案内を見たりしていました。感じていた以上に現実は甘くなく、もう一回頑張ってみようと思い廃業は回避できました。
7年目くらいに僕のやりたい仕事が出来たらと思い中日ドラゴンズにワイズの商品を見せに行きました。少しずつだったけど商品化も決まり、毎年安定的に商品を納めています。今ではオリックスにも納めています。毎日のように何かワイズの織物と商品を結び付けれる商品は無いかと考えてると少し憂鬱だけど、やりがいのある仕事です。これは、一生続けれたら続けたい。
一昨年くらいから今までの学校、デザイナー、服飾ブランド、中日などとは別に、ワイズテキスタイルオリジナルの製品を制作発表したいと漠然と考えていました。織る技術はあっても、デザインが出来ないから薄々あきらめていた。
去年くらいにもう長い付き合いになるデザイナーから、一緒にブランドを作って製品制作をしようと話があった。チャレンジだと思いデザイナーのイメージする生地を、組織、糸、出来る限りの要望を取り入れて織りあげようと考えて制作しています。サンプルは徐々に出来上がってきているが、僕にはこれがはたして良いものか、駄作なのか、判断が出来ない。今年9月頃までには発表して徐々にでもいい方向に進んでいければ。期待と不安の入り混じった状態です。
父が建ててくれたワイズテキスタイル。そして、その1年と3か月後に死んでしまった。いつまでたっても、1番僕の中で大きな出来事です。そしてそれからは、自分で仕事をもらってお客さんとも付き合っていかなくてはならなくなりました。
正直始めの3年くらいは何にも考えていなかった。このまま父が残してくれた仕事をこなしていればいいかと思っていました。父の残してくれた仕事は、テキスタイル大学の学生さんの作品をジャカード織物にして、授業の一環として使ってもらう仕事でした。これは、今も毎年続いています。学生や先生たちの展示会への生地制作も積極的に取り組んできました。
4年目くらいからは少しづつ他の仕事をもらえるように、自分で考えるようにしました。展示会に写真織を出したり、デザイン織りを発表したりしました。そこでデザイン事務所の方や、服地、カバン地のジャカード織の仕事をもらえるきっかけが出来ました。
6年目くらいに、一時期ワイズテキスタイル1番の危機的な経営状態になり廃業しようと決意しました。他所へ就職をしようと職安へ行き求人案内を見たりしていました。感じていた以上に現実は甘くなく、もう一回頑張ってみようと思い廃業は回避できました。
7年目くらいに僕のやりたい仕事が出来たらと思い中日ドラゴンズにワイズの商品を見せに行きました。少しずつだったけど商品化も決まり、毎年安定的に商品を納めています。今ではオリックスにも納めています。毎日のように何かワイズの織物と商品を結び付けれる商品は無いかと考えてると少し憂鬱だけど、やりがいのある仕事です。これは、一生続けれたら続けたい。
一昨年くらいから今までの学校、デザイナー、服飾ブランド、中日などとは別に、ワイズテキスタイルオリジナルの製品を制作発表したいと漠然と考えていました。織る技術はあっても、デザインが出来ないから薄々あきらめていた。
去年くらいにもう長い付き合いになるデザイナーから、一緒にブランドを作って製品制作をしようと話があった。チャレンジだと思いデザイナーのイメージする生地を、組織、糸、出来る限りの要望を取り入れて織りあげようと考えて制作しています。サンプルは徐々に出来上がってきているが、僕にはこれがはたして良いものか、駄作なのか、判断が出来ない。今年9月頃までには発表して徐々にでもいい方向に進んでいければ。期待と不安の入り混じった状態です。