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■「黄長はかく語りき」 第一回

 写真は、1997年2月に韓国に亡命した黄長(ファン・ジャンヨップ)氏。彼は元朝鮮労働党総書記で、北朝鮮の政治・哲学・倫理思想である「主体思想」の生みの親だった。

 今日から始まる連載『黄長はかく語りき』は、北朝鮮の政治や分断された南北ふたつの国家の統一について、金正日政権はどのように考えているのか、その戦略や戦術、それに対して金大中政権と盧武鉉政権が進める「融和政策」は、その戦略や戦術にどのように寄与、あるいは利用されているのかを、氏自身の体験をもとに語ったものである。

 話は3年前(2003年)の夏にさかのぼる。

■手紙
 亡命先の韓国で、事実上軟禁状態にあった朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の朝鮮労働党元総書記、黄長氏に、あるつてをたのんで私が手紙を送ったのは2003年の8月だった。小泉純一郎首相と金正日総書記による電撃的な日朝会談(2002年9月17日)から、およそ1年が経とうとしていた時期でもあった。 

黄長先生。
 初めてお便りを差し上げます。私はジャーナリストとして、テレビドキュメンタリーの制作に関わってきました。
 この間、世界では様々な出来事が起きました。そのひとつに1997年2月、黄長先生が韓国へ亡命されたことがあります。
 もちろんその後今日まで韓国政府の対北朝鮮政策(注①)によって、先生ご自身、皮肉にも自由なはずの韓国でありながら、公式的発言どころか行動まで制限されるという事態が続いていることは、なんとも嘆かわしいことと思わざるを得ません。

 さて、これまで世界は北朝鮮で進行していた食糧不足や独裁体制の実際など、本当の姿を知る機会はほとんどありませんでした。北朝鮮の今日ある危機的な状況を知ることになったきっかけは先生の亡命でした。
 そして私自身、先生がお書きになった著書(注②)などを拝読することで、あらためて北朝鮮の実情というものに触れました。それまではどこか半信半疑なところがありました。

 その理由はいうまでもありませんが、朝鮮半島の一方の当事者とのみ国交を回復し、もう一方の当事者とは日本の植民地支配に対する歴史の精算をしてこなかったことに対する私たち自身の負い目、それと社会主義に対する盲目的な信奉が〈そんなことがあるはずがない〉という幻想を生んでいたように思います。

 北朝鮮を逃げ出す、いわゆる脱北者問題が明るみに出始めたころ、私自身、何度も脱北者へのインタビューをいたしました。彼らの証言を通して、北朝鮮の一端を正確に伝えたい、と思ったからです。と、同時にその間、先生が名誉顧問をされております「脱北者同志会」を通じて、何回かインタビューをお願い致しましたが、結果的には韓国国家情報院の拒否に会い、今日まで実現できないまま参りました。

 しかし今年(2003年)6月になって今度こそ訪米(注③)が可能か、という韓国発のニュースに接し、再度インタビューのお願いをいたしましたが、またもや実現されないまま反故となってしまいました。

 それから1ヶ月あまり、アメリカ政府からの強い要請と再度アメリカ政府自らが先生の身の安全を約束したことで、廬武鉉政権もようやく国家情報院による警備体制を解き、同時に訪米も実現できる見通しになりました。本当に喜ばしいことです。

 ようやくやってきた状況の変化を前に、私はあらためて黄長先生ご自身へのインタビューをさせていただきたく、このようなお手紙をしたためている次第です。

 いうまでもありませんが、北朝鮮をめぐっては日韓を始め、米・中・ロを軸とした協議が始まっております。北朝鮮の核をどうするのかが中心議題ではありますが、日本は拉致問題に引きずられて、必ずしも他の5カ国との足並みを揃えているとはいえない状況にあります。

 協議自体はすでに報じられているとおり、北朝鮮の核放棄と引き替えに体制維持の保障を約束する、という方向で固まりつつあるようです。
 しかし私が思うには、本当の北朝鮮問題の〈解決〉とはなんなのか、残念ながら6カ国協議のなかからはいまだ見えてきません。そこで、本当の北朝鮮問題の〈解決〉とはなんなのか、是非黄長先生の見解を聞かせていただきたいと思うのです。

黄長先生。
 警備体制が緩和されましたなら、でき得る限り近い時期でのインタビューをさせていただけないでしょうか。取材の意図を直接お伝えしたくてこのようなお手紙を差し上げる次第です。よろしくご配慮下さい。
2003年8月1日                              

■訪韓
 私が黄長氏に会いたいと思った理由はひとつだった。
 それは彼のような大物が政治亡命したあと、今度は経済難民ともいうべき着の身着のままの人々や家族が陸続と中朝国境を越え、そして支援者たちの助力で次々と韓国に上陸し、北朝鮮生活の悲惨さをこもごも語ってくれたことをノートに記録するなかで少しずつ感じていたものだった。

 住民が飢えても平気な社会とはいったいどのような社会なのだろう、どうすればこのような社会は変わるのだろう―。

 一方、目を日本国内に転ずれば、当初、画期的な国交回復に向けた話し合いが期待された日朝首脳会談だったが、その後、日本人拉致問題の解決をめぐって双方共に疑心暗鬼となり、まさに金縛り状態に陥っていた。

 北朝鮮は一時帰国した5人を約束通りに戻せ、といい続け、日本は日本で一時帰国した5人は帰さないとした上で、残してきた拉致被害者の子供たちの帰国と、拉致後死亡した、とされた8人の再調査を迫ったままだった。

 日朝交渉は進展が期待できないまま2003年を迎え、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋を迎えていた。

 黄長氏に送った手紙の返事はなかなかなかった。
 だが、私は悲観しなかった。なぜなら、黄長氏が著した本を読む限り、彼は自らが中心になって作り上げた〈主体思想〉(注④)が、結果的には金日成・金正日父子の権力基盤強化のために利用され、そのことが亡命の理由のひとつとなったことを思えば、必ずや自らの立場の正当性をおおやけにすると共に、金日成・金正日父子政権の〈悪行〉を晴らす場を得たいと思っているに違いない、と期待していたからだった。

 私は韓国行きの飛行機を予約した。黄長氏に会う前にできれば韓国で会っておきたい人が何人かいたからだ。(以下第2回に続く)

(注①)韓国の対北政策・・・黄長氏の亡命直後に発足した金大中政権は、イソップ物語に出てくる「太陽とマント」をヒントに、対北朝鮮外交の柱に〈太陽政策〉と名付けた融和策を据えた。それは冷戦思考に基づいたそれまでの対立姿勢を捨て、北朝鮮とは食糧を始めとする経済支援などを通じて柔軟に対応しようという和解・協力政策であり、平和共存を基礎にした金大中政権の基本統一政策だった。

(注②)著書・・・『金正日への宣戦布告』(文芸春秋社刊)ほか『狂犬におびえるな』(同)など。

(注③)訪米・・・アメリカの国会議員と人権団体で構成される「ディフェンス・フォーラム基金」は、北朝鮮情報などの証言を得ようと、亡命以降ずっと韓国政府を通じて黄長氏の訪米を要請してきていた。

(注④)主体思想・・・対外的には韓国を始め周辺国に従属せず、独立と主体性を維持することであり、政策面では〈思想における主体〉〈政治における自主〉〈経済の自立〉〈国防における自衛〉を基本路線にした。黄長氏は「主体思想というのは、革命と建設の主人は人民大衆であり、これらを推し進める力も人民大衆にあるという思想である」とし、さらにこの命題を一般化して、「自分の運命の主人は自分自身であり、自分の運命を開拓する力も自分自身にあるという思想である」と定義している。(『北朝鮮の真実と虚偽』光文社刊)
 

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