この年、フランスで行われたサッカーのW杯で、クロアチアは初出場ながら3位に入った。ピッチ上を走り回るクロアチア・イレブンの〈勢い〉の前に、日本が負けたのも仕方ないか、と思ったことをいまも覚えている。
日本もまたこのフランス大会がW杯初出場だった。その日本は、ジャマイカ、アルゼンチン、クロアチアの4カ国で予選を戦った。だが日本はアルゼンチンに敗れ、カリブの旋風ともてはやされたジャマイカにも敗れ、そしてクロアチアにも0-1で敗れた。結局、決勝トーナメントに進むことはできなかった。初出場のプレッシャーと未熟さを同時に味わった大会となった。
それから8年。来年ドイツで行われるW杯予選トーナメントで、日本は再びクロアチアと相まみえることになった。
《以下引用》
「サッカー日本代表のジーコ監督は、2006年ワールドカップ(W杯)の1次リーグの組み合わせ抽選で、日本が自分の母国ブラジルと同じ組に入ったことについて、ハッピーだと話した。同じF組にはクロアチア、オーストラリアが入っている」(12月10日『ロイター』)《引用ここまで》
ジーコ監督の祖国、ブラジルと同じ組になったことでニュースバリューはそちらに傾いた観があるのは仕方ない。だが私は、ブラジル戦は歯が立たないとして、最も面白い戦いはクロアチア戦だろうな、と思う。その理由はのちに述べるけれども、クロアチアの監督がこんな自信に満ちたコメントをしていた。
《以下引用》
「クロアチアのクラニカル監督は日本に全く脅威を感じていなかった。「ブラジルがグループの1位候補」とした上で「残りの2カ国よりは強いと思う。楽観しているよ」と明言。「日本も対戦相手としてはOK」と2位通過への絶対の自信をのぞかせた」(12月11日『スポーツニッポン』)《引用ここまで》
ブラジルは仕方ない、しかし日本やオーストラリアよりは格上だぜ、ということを監督は言ったわけだ。
7年前を思い出す。
私はフランス大会を前に、予選で日本と同じ組に入ったジャマイカ、アルゼンチン、クロアチアのサッカー事情を知りたくて、この3カ国を訪ねた。レゲーボーイと名付けられ、カリブの国から初めて参加したジャマイカ、麻薬に溺れたりはしたが、「神の手」で一躍世界のサッカーファンの心を捉えたマラドーナが住むアルゼンチン、そして東欧崩壊に端を発し、国家の分裂からようやく立ち直り始めていたクロアチア。日本が対戦することになった相手は、それぞれの事情というものを抱えてW杯に臨んでいた。
キングストン、ブエノスアイレスと、ふたつの国の首都での取材を終えて、クロアチアに入った。首都ザグレブは想像していたよりも落ち着いていた。内戦が続いた国だけに、もっと荒れた感じかな、と思っていたのだ。
街で行き交う市民たちは、日本人だと分かると親しげに寄ってきたが、話が日本対クロアチア戦になると愛国心が頭をもたげるのか、絶対クロアチアが勝つ、という声のオンパレードになった。
そもそもクロアチアは、1991年まではスロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアなどとともにユーゴスラビア連邦共和国のひとつを構成していた。サッカー好きの民族で、6つの共和国の中ではその歴史が最も古かった。
それが東西冷戦の崩壊を機に、クロアチアは1991年の6月に連邦からの独立を宣言。ところが12月には、セルビア人が多数を占めていたクライナ地方で、セルビア人がクロアチアからの独立を宣言したことで、クロアチアは連邦と戦い、セルビア人とも戦うといった局面に立たされた。この内戦で、1万人以上が犠牲となった。
そういう歴史を直近まで経験していたのだ。だからこそW杯サッカーは、新生クロアチアをアッピールする好機だったのだ。
クロアチアとサッカーを物語るエピソードがもうひとつある。事件は1990年に起きた。首都ザグレブで、地元のディナボ・ザグレブとセルビアのレッドスター・ベオグラードとの試合があった。すでにクロアチアとセルビアは深い対立関係にあったことも原因だったのか、判定を巡ってザグレブのサポーターが暴れだしたのだ。そこにセルビア人中心の警官隊が鎮圧に乗り出す。そしてある警察官がグランドに飛び降りたクロアチア人の子どもに殴りかかろうとしたそのとき、ディナボ・ザグレブの選手が、その子供を救った、というのだ。選手の名はボバン。クロアチア代表チームの主将となった男だ。
美談でもある。しかし美談の裏には計算もある。
クロアチア独立の父と呼ばれる初代大統領ツジマンは、大のサッカーファン。そしてディナモ・ザグレブのオーナーでもあった。しかもクロアチア代表チームの監督や選手の人事権まで握っていた。その彼が、新生クロアチアを世界にアピールするために、サッカーを大いに利用した。
ザグレブの街でカーニバルが行われたとき、そのツジマン大統領が賓客として現れた。警備陣の肩越しに私は大声で質問した。
「大統領、あなたにとってサッカーとはなんですか?」
大統領は私のほうを振り向いてくれたが、答えはなかった。
クロアチアは、1996年の欧州選手権では初出場ながらベスト8、そしてフランスでのW杯では3位に輝き、 世界中を驚かせた。国威発揚に大いに役立ったことは確かだ。
1998年の予選トーナメントで日本と戦った主将ボバンを始め、シューケル、プロシネチキ、ボクシッチ、シューケル、アサノビッチといったタレント性豊かなクロアチア人選手はほとんど引退した。
ある意味では、クロアチア建国という時代の中で戦争や内戦、政治に大きく利用され、そして国威発揚の道具にもされた彼らは、その役割を終えたのかも知れない。
トップに立ったツジマン大統領も2000年末に死んだ。
来年のドイツ大会で、日本と当たることになったクロアチアのクラニカル監督の言葉からは、もはや悲壮な響きはない。クロアチア独立から時間が経ち、その分余裕が出てきた、ということなのだろうか。
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