▶日本行きには「日本渡航証明書」
『本証明書添付の写真及び✕✕に該当する知念〇〇は
日本へ旅行する琉球住民であることを証明する
琉球列島高等弁務官』
上の写真は1970年5月6日、
つまり沖縄が復帰する前、那覇市にあった出入管理庁で撮影したものだ。
アメリカ施政権下の沖縄では、
琉球列島高等弁務官が発行するこの『日本渡航証明書』がなければ、
日本にも気軽には行けなかった。
高等弁務官(High Commissioner of the Ryukyu Islands)とは、
アメリカ大統領の承認の下で、国防長官が現役陸軍将官の中から任命する。
与えられた権限も行政、立法、司法と広範囲に及んだ。
あらためて『証明書』の内容を見てみると、日本国民でもなく、
沖縄県民でもなく、「琉球住民」という言葉が、
復帰前の沖縄を全て語っているようで、私には「もの悲しく」映る。
思い返すまでもなく、
沖縄は1945年の戦争終結から27年間にわたって、
このような「もの悲しい」立場を余儀なくされてきた。
別の言葉に置き換えれば、
「だからこそ、闘ってきたのだ」というべきかも知れない。
▶初めての沖縄、そしてそこから始まった「私の沖縄」
その沖縄に、私がカメラマンとして、高等弁務官からの許可証を得て
初めて那覇空港に降り立ったのは1968年10月。
入域許可証上のステータスは「文化活動者」というものだった。
沖縄は快晴で、私が乗った「ノースウェスト航空」は時間通りに着陸。
だが、それから3時間後、事件は起きた(以下次回)。
※この「私の復帰前史」は、カメラマンとして復帰までの足かけ5年、
沖縄に暮らした私の実感的沖縄体験報告です。
※シリーズタイトル「やまと世から50年」の「やまと世(ゆー)」とは、
沖縄では日常語で、絶えず外国に従属させられてきた
「世代わり」の歴史に根ざしている。
復帰前の沖縄は「アメリカ世」だった。