熊本で開かれた学会の合間に、30年以上前に住んだことのある旧宅のあたりを探訪した。
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半年だけ住んだ大江の家の跡。現在も一軒だけ家が残っているが、その右隣に平屋建ての家があって、そこに住んでいた。Googleの地図で見ると、三角形の空き地のようなものがあるが、そこには当時、火の見櫓が建っていた。上の写真では大きな木が生えているところである。なぜこんなところに火の見櫓があったのかは分からない。
家の後ろには合同庁舎が建っているが、当時すでに合同庁舎を建設する予定が決まっており、あたりは空き地になっていた。ラジコンで遊ぶのには格好の場所で、親戚に買ってもらったティレル・フォードの六輪車のラジコンをここで走らせた。
当時通ったのは大江小学校だが、あまりこの学校のことは記憶に残っていない。
その後に引っ越した渡鹿の家の最寄りバス停は、託麻原本通り。
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今となってはあまり広い道ではないが、当時はこの道が本通りだったのである。今は産業道路に交通の主役を奪われているようだが、産交バスがまだ通っている。当時、産交バスは古くなった観光バスを格下げして路線バスに投入していたが、バスを待っていて、この観光バスのお下がりが見えてくると、嬉しくなったものだった。当時は路線バスは冷房化されていない車のほうが多かったのだが、観光バスのお下がりはすべて冷房車で、格段に涼しかったのである。
託麻原から大江のほうに自転車で行くときは、熊本商大のキャンパスの中を通って近道をしたが、商大は今は熊本学園大学となり、熊本の一大私立総合大学となっている。
この託麻原通り沿いに渡鹿マーケットがあったが、いまも健在で、名前も渡鹿マーケットのままだった。
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託麻原通りからちょっと入ったところに、託麻原小学校の裏門がある。
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渡鹿の家に引っ越して、託麻原小学校に転入することになった。このあたりは道が狭く、マンションが建てられないようで、今も一軒家が多い。この静かな住宅街で、あの託麻原殺人事件が起こったとは、ちょっと信じがたい。
私は裏門から学校に出入りしていた。グランドはもっと広かったような記憶があるが、子どもの目には広く見えていたのであろう。
そして、裏門側と渡鹿マーケットの間には、団地があったように記憶するのだが、更地になっていた。この更地が団地の跡だろうか。
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裏門とは反対側に託麻原小学校の正門がある。
正門側は、わりと大きな家が多い住宅地だったが、それは今も変わっていない。友達の家も近くにあったはずだが、場所を思い出すことができなかった。
託麻原通り側に戻り、産業道路のほうに向かって歩いて行くと、渡鹿公園がある。夏休みにラジオ体操をしたところである。かなり大きな公園だった記憶があるが、野球グランドもあったことは忘れていた。
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この渡鹿公園の近くに、梅林があった。このあたりは戦前は陸軍の歩兵第13連隊があったところで、現在は門だけが残されている。
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梅林の中に、工兵が訓練のために建てたという煉瓦の橋があった。そして、陸軍時代の兵舎が1軒だけ梅林の中に残されていて、そこを改装して、老人が住んでいた。どうしてそういう関係になったのかを思い出すことができないのだが、この老人に可愛がられて、お茶やお菓子をご馳走になったことがある。家の中は老人が収集した骨董品であふれていて、なんとも不思議な家だったことを覚えている。老人は、おそらく鬼籍に入っていることであろう。
あれから三十有余年、旧宅のあたりを歩きながら、民謡がとても上手で毎月、東京まで師匠の先生に習いに行っているという同級生の女の子がいたことや、スポーツ用品店をしている友達の家に遊びに行くと、いつもお寿司や店屋物を出前で取ってくれたことなどを思い出した。
その後、川崎市に転居することになったので託麻原小学校から転出したが、託麻原には懐かしい思い出が多い。私にとっては「故旧忘れ得べき」の地である。
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半年だけ住んだ大江の家の跡。現在も一軒だけ家が残っているが、その右隣に平屋建ての家があって、そこに住んでいた。Googleの地図で見ると、三角形の空き地のようなものがあるが、そこには当時、火の見櫓が建っていた。上の写真では大きな木が生えているところである。なぜこんなところに火の見櫓があったのかは分からない。
家の後ろには合同庁舎が建っているが、当時すでに合同庁舎を建設する予定が決まっており、あたりは空き地になっていた。ラジコンで遊ぶのには格好の場所で、親戚に買ってもらったティレル・フォードの六輪車のラジコンをここで走らせた。
当時通ったのは大江小学校だが、あまりこの学校のことは記憶に残っていない。
その後に引っ越した渡鹿の家の最寄りバス停は、託麻原本通り。
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今となってはあまり広い道ではないが、当時はこの道が本通りだったのである。今は産業道路に交通の主役を奪われているようだが、産交バスがまだ通っている。当時、産交バスは古くなった観光バスを格下げして路線バスに投入していたが、バスを待っていて、この観光バスのお下がりが見えてくると、嬉しくなったものだった。当時は路線バスは冷房化されていない車のほうが多かったのだが、観光バスのお下がりはすべて冷房車で、格段に涼しかったのである。
託麻原から大江のほうに自転車で行くときは、熊本商大のキャンパスの中を通って近道をしたが、商大は今は熊本学園大学となり、熊本の一大私立総合大学となっている。
この託麻原通り沿いに渡鹿マーケットがあったが、いまも健在で、名前も渡鹿マーケットのままだった。
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託麻原通りからちょっと入ったところに、託麻原小学校の裏門がある。
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渡鹿の家に引っ越して、託麻原小学校に転入することになった。このあたりは道が狭く、マンションが建てられないようで、今も一軒家が多い。この静かな住宅街で、あの託麻原殺人事件が起こったとは、ちょっと信じがたい。
私は裏門から学校に出入りしていた。グランドはもっと広かったような記憶があるが、子どもの目には広く見えていたのであろう。
そして、裏門側と渡鹿マーケットの間には、団地があったように記憶するのだが、更地になっていた。この更地が団地の跡だろうか。
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裏門とは反対側に託麻原小学校の正門がある。
正門側は、わりと大きな家が多い住宅地だったが、それは今も変わっていない。友達の家も近くにあったはずだが、場所を思い出すことができなかった。
託麻原通り側に戻り、産業道路のほうに向かって歩いて行くと、渡鹿公園がある。夏休みにラジオ体操をしたところである。かなり大きな公園だった記憶があるが、野球グランドもあったことは忘れていた。
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この渡鹿公園の近くに、梅林があった。このあたりは戦前は陸軍の歩兵第13連隊があったところで、現在は門だけが残されている。
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梅林の中に、工兵が訓練のために建てたという煉瓦の橋があった。そして、陸軍時代の兵舎が1軒だけ梅林の中に残されていて、そこを改装して、老人が住んでいた。どうしてそういう関係になったのかを思い出すことができないのだが、この老人に可愛がられて、お茶やお菓子をご馳走になったことがある。家の中は老人が収集した骨董品であふれていて、なんとも不思議な家だったことを覚えている。老人は、おそらく鬼籍に入っていることであろう。
あれから三十有余年、旧宅のあたりを歩きながら、民謡がとても上手で毎月、東京まで師匠の先生に習いに行っているという同級生の女の子がいたことや、スポーツ用品店をしている友達の家に遊びに行くと、いつもお寿司や店屋物を出前で取ってくれたことなどを思い出した。
その後、川崎市に転居することになったので託麻原小学校から転出したが、託麻原には懐かしい思い出が多い。私にとっては「故旧忘れ得べき」の地である。