六郷橋を渡ると、万年横丁と大師道の道標があります。東海道はこっちの方へ進みます。六郷橋の高架をくぐりますと、万年屋跡があります。六郷の渡しを渡るとすぐに川崎の宿場町。なかでも万年屋の奈良茶飯が名物だったそうです。
川崎稲荷神社です。紀州の徳川吉宗が将軍継承のために江戸に向かう際に休息したとの事です。
この辺りは、稲荷横丁と呼ばれます。
六郷橋を渡ると、万年横丁と大師道の道標があります。東海道はこっちの方へ進みます。六郷橋の高架をくぐりますと、万年屋跡があります。六郷の渡しを渡るとすぐに川崎の宿場町。なかでも万年屋の奈良茶飯が名物だったそうです。
川崎稲荷神社です。紀州の徳川吉宗が将軍継承のために江戸に向かう際に休息したとの事です。
創建 |
? |
主祭神 |
菅原道真 |
側に、六郷の渡し跡があります。
慶長5年(1600年)、徳川家康により六郷川に六郷大橋を架けられ、以来修復やかけ直しが行われました。元禄元年7月の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなりました。当初渡船は、江戸の町人が請け負っていましたが、宝永6年3月川崎宿が請け負うことになり、それによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。現在では、川崎側に渡船跡の碑と、明治天皇六郷渡御碑が建ち、欄干に渡船のモニュメントがあります。
こちらは、大正14年(1925年)に架けられた、旧六郷橋の東京側の親柱です。
さて、六郷橋を渡ります。立派な橋です😳
神奈川県川崎市、川崎宿に入っていきます。
創建 |
天喜5年(1057年) |
主祭神 |
誉田別尊 |
社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。
文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。
天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんは、ここにあります。
江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新により廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年より六郷神社と称して今日に至っております。
六郷神社は、六郷川(多摩川)の守護神でもあり、古くは大師河原町・元羽田4ヶ町、鈴木新田(現羽田空港)などを含め41ヶ町の氏子をもつ総鎮守でした。
祭礼は、3基の神輿をご座船に載せ六郷川を船渡御する曳舟祭が行われておりました。
おしまい😀
文政年間(1818年から1830年)の初めに、和中散という道中常備薬を商う山本久三郎が、梅の名木を集め、東海道を往来する旅人を相手に茶店を開きました。かつては蒲田梅屋敷として、亀戸の梅林とともに江戸近郊の梅の名所の一つとして有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。現在公園になっているところは、その屋敷跡の一部です。
昭和七年(1932)、東京市の市域拡張に伴い、それまで荏原郡に属していた現大田区域のうち馬込・東調布・池上・入新井・大森の五町が合併して大森区ができました。
大森区役所の位置は、入新井町役場も候補地でしたが、大森町役場の庁舎が昭和六年(1931)に建設されたばかりで、当時荏原郡で唯一の鉄筋コンクリート三階建ての建物であったことから決定されたと伝えられます。この建物は、昭和十五年(1940)に区役所が中央二丁目(現大田文化の森)に移転してからは大森警察署として、利用されてきました。
創建 |
?年 |
主祭神 |
高龗神、伊邪那岐命、倉稲魂命 |
伊耶那岐命の御子にして水を司る神様です。
農業、漁業、航海、醸造等をはじめ各種生産富貴の神として地域の心の拠り所を担ってきました。3頭の龍がお使いとして仕えていると言われています。アサリを禁じて祈願すれば腫物等たちまちに全癒するとの伝説があります😙
おしまい😀