今回から、恩地孝四郎の夢二感をご紹介します。原文が長く旧仮名遣いで段落なしのため読みにくいですが、そのまま掲出します。難解な言葉は途中に注釈を入れています。
*『夢二スケッチ帖抄』復刻版(未来社)の編者解説「夢二のスケッチ帖」より
(注)本書は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第六巻第六号の特別号として昭和13年(1938)11月アオイ書房から発行されたもので、1000部もしくは600~700部と言われる。(復刻版「復刻にあたって」(高木護)より)
玆(ここ)に収められた故夢二のスケッチは、いま有島生馬氏に保管されてゐる五百に余るスケッチ帖、手帖のなかから撰み輯したものである。この一山のスケッチ帖、併しこの外に尚幾多散逸したものがあることは推せられる。が、幸にもよくも保存せられたものと思ふ。夢二は之らを大切にしてゐた、ほとんど初期の明治四二年のものからあり、彼の頻々たりし轉住にもよく散逸しなかつたものである。彼はしばしば放恣な生活者のやうに輕傳されたゐたがこの一事をみてもそれが皮相の即断なることが知れやう。彼は常にスケッチ帖を懐中してゐた。ポケットからその結び紐のたれてゐた姿をいまも懐ひ出す。画材にあふや、それが電車内でも途上でも、素人裡でも忽ち鉛筆を走らす彼であつた。スケッチすることが恰も呼吸するが如きである。後年にはこの外でのスケッチは稀になつたが、それでも懐中の手帖が、必要時には画帖となるのであつた。その最も盛なりしは、明治四四年頃であり、丁度画集が四季出きつて彼の名が青年子女を咳関してゐた頃であり、著、野に山に、都會の巻が出、翌年にかけて、櫻さく島、櫻さく國、が出た頃、それから二三年に亙(わた)る。繪は自分にとつては内部生活の報告だといつた彼、強ひて画くには當たらない、美しいものを感じてゐるだけで満足だといつた彼、繪と生活とが不可分に考へられてゐた彼にとつて、對象に興を得るた忽ち寫すのスケッチは誠に彼の感情そのものであり、生活そのものであり、皮膚であり肉であるのである。數多い画集の仕事の終わつた後の彼の画作は、それが誌上のものでも又画布ものでさへ、常に屢々(しばしば)強ひられた繪であり、パンのための止むなき書作であつたが、スケッチだけは常に純粋に彼の喜びであつた。そこには彼を束縛する何もない。ただありとすれば時間的な制限である。だがこれは却って彼の走筆を充實させ、いろいろな座右念を拂ひ落し、画を彼そのものとして純粋にする、彼にとつての最上の状態であるといふべきだ。かれの画には、スケッチでない繪には強ひて加へた拗態や、誇張にすぎる過剰な情緒がある。だがスケッチではその余地がない。しかもそこに自ら表はれる憂婉さは、彼の装はれざる面目の現はれであり、眞の彼そのものである。夢二の藝術にその誇張された殉情味を又それを表はす拗形を嫌ふ人も、これらのスケッチ画をみるときには自ら、彼の優れたものを率直に感ずるであらう。勿論彼の画の、そして人の本質は、英雄でもなければ國士でもない。一市井人としての、又一個の人間としての素朴な感情の表出であつて、決して偉大型ではない。が人間生活に於いて、之も又偉大なるものの一つであることは忘れられてならないのである。今まで全く塡(うずも)れてゐた彼のスケッチ画を画帖から直接上版刊行し得たことは、誠に刊行者の個人に對する熱愛の故であつて此れが世に上されることは、彼の正しい理解のためにも喜びに堪へないし、又この時代の驕兒の藝術の核心を示すことの出来たのは画に携るものとして又遺された友として欣び深いものである。彼の身がそこに置かれてゐたその時代をその姿を丹念に又執拗に、追及していつたな生の記録である之らのスケッチは、一に時代の記念としても、ただそれだけでも立派に存置させられるべきだ。此の又さうした成心なく描きとめられた之らのものにこそ更に的確な、如實な記録がなされてゐるのである。その内容が、その範圍が何であるかは茲(ここ)に云ふまでもない。画自身が最も正確に之を語るであらう。思へば泰西文化の吸収が蓄積されて、繁華な姿を成してゐた明治文化、折から世紀末のデカダニズムを引きつつ而も、新らしい世界への暁望に薀醸(うんじょう)しつつあつた明治末から、改元新らしき世紀の具体化に揺曳(ようえい)してゐた大正初年の気運のうちに行為されてゐた生活相は、日本の文化史の上からも貴重である。ペンいささか岐路に奔つたが、いまかうして夥しい數の夢二のスケッチ画をみてゐると、彼の畫のうまさが泌々感ぜられる。ロダンの、かのモデルから殆ど目を離さずにかいたといふ流動的なスケッチに似た生気も見られるし、瞬時よく捉へた姿態の美しさも自由に示されてゐる。女容を描いて實にその神髄を傳へてゐるものである。命名ずきな世間は、夢二を捉へて大正の歌麿といつた。もし時、往時の錦繪全盛時代の如く、錦繪が行はれてゐたら、誠にその如く多くの女態の傑作を残したであらうに、雑誌等の舞台に踊らされ後世散逸して了つたのは、やはり無念である。が、茲(ここ)にその精髄であるスケッチ集を遺しうるということは、その遺憾を償うて余りあるものだ。夢二の繪が、夢二の詩が、夢二の物語がさうである如く、スケッチにあつてもその題材の範圍は廣くはない。何物も究めようとするリアリストの態度は彼にない。一つの憧るるものを取り出すロマンチストの姿が、スケッチにも示される。彼の數多いスケッチ帖を飜(ママ)いて驚くことは、二十數年に亙(わた)ってその題材が殆ど同一(原文は旧字使用)な、五六種類に限られてゐることである。女態にしてそれが云へる。同じ原文は旧字使用)姿態が何遍も現はれる。蓋しこの撰まれた姿態を追ふために、對象の種類が限られ狭斜(きょうしゃ)の巷の女に劃られた(ママ)のではないのかと思はれる位である。つくろはれたる形は殆どない。風景にあつては、荒涼さや、廣漠さを示すやうなそれ、街景にあつては、好んで裏街や路地が丁度油畫の故佐伯氏が夢二に似てゐるとはれた位にである。大川端や渡し場、浅草などについては別記したが、それらは年を隔てて猶(なお)全く同一(原文は旧字使用)の所から描かれてゐること廔々(ろうろう)である。此内あさくさについては特に云はねばならない。彼の公表作にも廔々見られてゐるが、之に關するスケッチは實に多い、當時―彼のスケッチの最盛期であつた明治末大正始頃の浅草は、東京の盛り場の最たるもので、唯一といつていい位の遊樂地であつた。浅草寺観音堂を中心に仲見世には地方人の土産物を賣る小店が櫛比(しっぴ)し、六區公園隅には代表的な映畫館が立ち並び、但し當時は活動寫眞館といつていたが、いろいろな娯樂施設を用意したルナパークなどが隣接し、そして浅草をシンボルする十二階が聳えていた。外のはまづ現状大差ないが之れはもうない、その十二階したと呼んだ軒並の賣色(ばいしょく)の家には夜を鬻(ひさ)く(ママ)女たちが群れ、公園のベンチには、浮浪者たちが眠り、暗い小路などには不良兒が待ちかまへ、歓樂と悪行のるつぼであつた。青年夢二が、茲(ここ)をオアシスとし道場としたのは當然であつたであらう。浅草のスケッチは幾帖かを成してゐる。鑑賞の自然さを思ってそれらはなるたけまとめたため年代が多少混戦してゐるが、とまれ彼の浅草は數年に亙つてゐる。之らの諸画が、遊冶(ゆうや)生活の所産だとするのは當らない。關係は蓋(けだ)しその逆であらう。彼にとつて女は美しければいい、又生活的には純情であればいい。だから彼の方向がそちら向になつただけなのである。カフエの女といふのが廔々(しばしば)現れる。當時、カフエは正にミルクホールに入れ變(かわ)つて新しい流行を來たさうとした頃である。今のカフエよりもつと素朴であり、明るい。今の喫茶店のやうにドライでもない。小レストランである。その女の子が廔々現はれるのである。活動の娘は和服の上に黒い上っ張り黒足袋で薄明のなかに顔と手を浮かしてゐた。おとなしき明治末大正始である。浅草では玉乗りがある。江川一座が常設されてゐた。祭の店ものも彼の長い題材だ。猿芝居は妙にいぢらしかつたのであらう。祭は彼のいい題材の一つである。ことに祭のすんだのちの落莫(らくばく)感情からよく描かれてゐるが、スケッチでは余りいいのが見當らなかつたので省いた。形としてはよくないためであらう。面白いのは田舎の人がよく描かれてゐること。これは彼の素朴な感情への共鳴と、何か無知な感へのいぢらしさであらうか。母子は廔々かかれてゐる。茲(ここ)に彼の見えざる母への思慕が現はれてゐるのだと思ふ。
(注)
・櫛比(しっぴ):櫛 (くし) の歯のように、すきまなく並んでいること。
・賣色(ばいしょく):売春
・遊冶(ゆうや):遊びにふけること
・落莫(らくばく):勢いが弱くなって、物寂しい様子
・十二階:東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔。1890年竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年関東大震災で半壊し解体された。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られている。
家庭の人物は彼の家族がかかれる。所謂夢二式の女を成した環女は初期に、京都時代には日本画を描いた彦乃女が、そして後期には「お葉さん」が。童兒へは深い愛着で彼の二兒が各時期に亙り寫し留められてあるが、割愛した。彼の著作にも波があるが、スケッチでも差動がある。前期盛期を過ぎては、緩慢となり、その状態を長く引いて松澤村定住に迄至ってゐる。いま彼のスケッチを時代的に見ると、初期は彼の先駆者とみるべき明治末の清麗な挿畫家一條成美の筆致の下にあり、僅に彼の萌芽を見せるに過ぎない。大半は収めない。彼の特質がはつきりと流動してゐるものは一九一〇年以降で、一九一一年が最頂で一三年くらいに至る間であらう。本輯又その期を主としたが、秀作の量も多いのである。彼の文字的著作の多い中期には余り見るべきものがない。が、後期に至っては果して緊縮した筆致を見せ充實したスケッチを残してゐるのである。題材も女は闇の女をすてて藝妓にうつてゐる(ママ)。但し此點はもつとずつと早い。闇の女は他の時代に及んでゐないのは又、それらへの渉猟(しょうりょう)が早く切上つてゐる証左でもあるし年齢とも並行した結果であらう。外遊中の夥(おびただ)しいスケッチはこの人として當然である。之らは既に前集、竹久夢二遺作集で見られたであらう。ただ、女のスケッチは甚だ生彩がないのは、彼がいかに日本のキモノと共に生息してゐたかが覗へる。日本の着物は女の感情の微影までを傳へ表はすといつた彼である。といへば、スケッチ帖の山をくづし乍ら有島氏もいはれたが、彼には裸体のスケッチが少い。之も右述の理念のためであり、衣を纏(まと)つてこそ美しいといつた彼には當然であり、わざわざしつらへたものをかくことをしなかつた彼に、所謂裸体がないのは必然である。自然状態に在ては裸形は化粧時と浴時だけである。だから夢二のスケッチのそれはこの状態だけである。一四七の浴女はさしてよいものでないがおそらく甚だ速寫であつたであらうこれにも、よく女の姿態はつかまれてゐる。しつらへられた裸体クロッキーではない。尚、本輯の画に加へられてる色は、夢二君がいつも黒と共に携行した、ババリア出來ジヨンファバアの素木軸の色鉛筆の色を模したので、之らの賦色(ふしょく)はすべて速寫時同時に加へられたものである。あとで加へたと推せらるるものは集中二三しかない。加へられた此一色がいかに溌溂(はつらつ)としてゐるか。茲(ここ)にも彼の才能が見られる。(了)
(注)
・渉猟(しょうりょう):広くあちこち歩きまわって、さがし求めること。
・一條成美(いちじょうせいび):男性、1877年9月25日 - 1910年8月12日。長野県東筑摩郡神林村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を中退後、1897年長野県庁に奉職し土木課製図係となる。菊池容斎の画風に私淑し独学で日本画を学び、上京して渡辺省亭に師事する。与謝野鉄幹の『明星』の表紙画や挿絵を担当し、日本画と洋画を折衷した作風で有名となるが、明星第8号の挿絵が内務省により発禁処分を受け、1901年出版元の新詩社を退社した。その後は新声社、博文館、冨山房、三省堂など各出版社の文芸誌や、河井醉茗の詩集『無弦弓』、中村春雨の小説『無花果』などの挿絵や装丁を手がけ、東京高等師範学校の嘱託を務めたこともあったが、1910年に東京府豊多摩郡淀橋町(現東京都新宿区)の自宅で死去した。死因については詳細は不明だが、過度の飲酒が原因だろうと旧制中学の同級生窪田空穂は回想している。(wikipediaより)
▼夢二のスケッチ(『夢二スケッチ帖抄』復刻版より)
▼外遊中のスケッチ(『夢二外遊記』(長田幹雄編)より」)