夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第7回「岩田専太郎と夢二の不思議な縁」

2024-10-17 10:11:51 | 日記

夢二が上京した1901年(明治34)東京・浅草に生まれた岩田専太郎は、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表しました。その後、永井荷風らの連載小説の挿絵を描き、志村立美と小林秀恒とともに挿絵界の「三羽烏」と言われるほどの挿絵画家となりました。今回は、彼と夢二との不思議な縁に関するエッセイを紹介します。

■岩田専太郎
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房指新社)の「竹久夢二の思い出」より
(注)本文は、岩田専太郎が『三彩増刊 竹久夢二』(1969年(昭和44)(三彩社)に掲載したものです。

忙中の走り書き意をつくし得ないことをおゆるし下さい。

私が、はじめて夢二の名を知ったのは、小学生の頃でした。そこはかとない哀愁をただよわせたその絵が、幼い少年の心を捕えたのだと思います。夢二の絵が載っていることだけで多くの少年・少女雑誌を買いあさったのを覚えています。

小学校を卒業するとすぐ私は、家庭の都合で東京の地を去り京都へ移りました。その頃長田幹彦氏の祇園をあつかった小説の単行本が幾つか出版され夢二がその装幀をしています。木版刷りの美しい本でした。その何冊かを買ったのも、舞妓を描いた夢二の絵がほしかったからでした。

はじめて夢二の姿を見たのもその頃でした。――会ったというより見たというのが正しいでしょう。

それは、岡崎の京都図書館で夢二の個展が開かれた時でした。その頃の私はまだ画家になる気はなかったのですが、好きな絵が見られるというだけで、それを観に行ったと思います。

なぜか、会場には人影がまばらでしたが、画壇のこととか、夢二の人気とかには、関心のない少年のことですから、気にもならなかったようです。心ゆくまで絵を楽しんだ後、会場のそとへ出ました。

図書館のまわりには芝生がありました。その裏口に近い場所に、黒い背広を着た顔色のさえない男の人が、立てた膝の上に顎をうずめるようにして座っていたのです。白い壁をバックに細い木立もあったと思います。

その人を見た瞬間、それが夢二だと思ったのは、なぜか判りません。遠い所をみつめているような悲しげな眼差しと、今にも消えてしまいそうなそのポーズとに、そのまま夢二の絵を感じたのかも知れません。しばらく私が立ちどまっている間、その人は身動きもしませんでした。

――夢二に会えた――勝手にそうきめた私は、心おどる思いで家路につきました。

夢二に会って言葉を交わしたのは、その数年後、私が東京へ帰り挿絵の仕事をするようになってからニ十歳をすぎた頃でした。雑誌社の応接室で編集の人に紹介されたその人は、少年の日見たのと同じ人でした。やはり黒い背広を着て憂鬱な表情をしていました。いうまでもなく私は、京都のことも、少年の頃からその絵の愛好者だったことも、口にしませんでした。が、思いがけず自分が、その人と同じようにマスコミの仕事に従事するようになった十年近くの歳月の間、一時期を風靡し、女性関係その他プライベートに関しても、いろいろ噂の多かったことを知らなかったのではありません。

また、十年近くの時が流れ去り、私が挿絵の仕事に追われ続けるようになった或る年の正月のことでした。人目をさけたい事情があって、わざと暖い湘南の地をさけ寒い伊香保の宿に数日を送った時、宿帳には偽名を書いてあったのにかかわらず、画帖へ何か描くことを求められました。気のすすまぬまま炬燵の上でその画帖を開き、一枚一枚めくってゆくうち、思いもよらず、そこに「夢」の署名のある絵を見出しました。

広々と広がる枯野原に、黒い背広に黒いソフトの痩せた男が立ち、遠く汽車の煙らしいうす墨が流れていました。

  ――倖せは吾がかたわらを過ぎゆきぬ、のりおくれたる列車にも似て――

余白にかかれたその文字が、私の背筋にさむざむとした思いを走らせたのは、その頃の伊香保の宿に暖房設備がなかったせいばかりではありませんでした。盛衰の劇しいマスコミの流れから、死後時がすぎての盛名とうらはらに、一ツ時、夢二の名が忘れるともなく忘れられていたからです――海外旅行のあと、富士見高原に独り病をやしなっていると、人の噂に聞いてはいましたが――

二・二六事件の起こるすこし前、世の中が騒然としていた頃のことでした……

※岩田専太郎:1901年(明治34)6月8日 - 1974年2月19日。日本の画家、美術考証家。1901年6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれ、小学校卒業後、菊池契月、伊東深水に師事。1919年(大正8)、十代後半から『講談雑誌』(博文館)で挿絵を発表。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、大阪に転居。中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となる。同年創刊の『女性』(小山内薫編集)、翌年創刊の『苦楽』(直木三十五、川口松太郎ら編集)で、永井荷風らの連載小説の挿絵を描く。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。1926年(大正15)に東京に戻り、同市滝野川区田端476番地(現在の北区田端)に転居する。この界隈は「田端文士村」と呼ばれた町で、すぐ後には隣に川口松太郎が引っ越してきている。同年『大阪毎日新聞』に吉川英治が連載した『鳴門秘帖』に挿絵を描いて評判を呼び、「モダン浮世絵」と呼ばれた。1937年(昭和12)、映画監督山中貞雄の遺作となった四代目河原崎長十郎主演の映画『人情紙風船』(P.C.L.映画作品)の美術考証を手がけた縁で、1939年(昭和14)、山中の遺した原案をもとに梶原金八が脚本を書き、河原崎が主演し、山中の助監督だった萩原遼が監督した映画『その前夜』(東宝映画京都撮影所作品)の美術考証を手がける。1954年(昭和29)、表紙絵及び挿絵が評価され、第2回菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49)2月19日に死去。享年72歳。妹は女優の湊明子。(wikipediaより)

※「第1回夢二作品展覧会」…1912年(大正元年)11月23日~12月2日)に京都府立図書館で開催。
※二・二六事件:1936年(昭和11)2月26日から29日にかけて、陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件。 陸軍の「皇道派」に属する青年将校らが、東京の近衛歩兵第3連隊などの部隊を率い、首相官邸や政府要人宅を襲撃した。夢二は1934年(昭和9)に逝去している。