夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第9回「じいちゃんと呼ばれたくなかった夢二」(竹久みなみ)

2024-10-24 09:40:31 | 日記

今回は、夢二の長男虹之助の娘、竹久みなみさんです。
みなみさんは、2022年10月27日に89歳で亡くなられるまでずっと夢二研究会の会員として活躍されていました。
後段でみなみさんの人となりを紹介しています。今も、両国の東京都復興記念館に行くと、みなみさんの功績「東京災難画信」の展示、そして有島生馬が関東大震災を描いた巨大な画に出会うことができます。

■竹久みなみ
*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』(竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)に「夢二 虹之助 不二彦」と題して掲載されたものです。

 竹久夢二について語った父の文章があった。

 私が会ひに行つたとき父はベッドにゐたが見違えるほど老ひてゐるのに私は、思はず「パパよく帰って来たな」と云つてやりたいほどだった。私はその時すでに一人の子供の父になつてゐたので孫を見せやうと云うと、「ぢいちゃんと云はれるのはいやだね」と父は笑つたけれど、私は涙が出るほど胸が痛くなつた。それからニ、三日して私は子供をつれて行つた。「ほら、おじいちゃんだよ」と子供に云つたとき、父は淋しく笑いながら云つた。「ぢいちゃんはいやだね、夢二兄ちゃんと云へよ」その悲しい言葉は、だが、どんなに夢二らしいひびきをもつていたか知れない。とにかく父はつかれきってゐた。

「いつまでも眠れさうだからねかせてくれ」と云つてベッドへ行つた。

 ここに書かれている子供は私だ。この後、父と母は離婚し、父は五、六歳の私を、夢二の次男不二彦に預けた。父の事母の事は一切知らない。が少しは私の事を思っていたのか。

 戦時中の事、学童疎開の私は戸山のお寺にいた。食糧事情が悪く腸の弱い私は家に帰りたいと手紙を書いた。昭和二十年七月、虹之助が富山へ迎えに来た。その足で富山に住む夢二の妻だった他万喜の家に寄ったら、七月九日に亡くなったばかりであった。虹之助はさぞ悲しかっただろう。そして帰ろうとした時富山の家では、「私を置いていったら」と虹之助に言った。虹之助は私を連れ帰った。何となく少し嬉しかった。

 夢二の事は自然と不二彦(編者注:夢二の次男)に教えてもらうのだが、夢二はこう言った。ではなく、日常普段から不二彦の言う事やる事は、夢二の行った事やっていた事として、私は受け止めていた。

 よく銀座に出掛けていたが、不二彦と叔母の間にいる私は、人生で一番幸せな時期であった。電車を降りる時に、不二彦は叔母に口笛で知らせる。とても恰好良かった。

 普段不二彦は、あまり怒らないが、ある朝味噌汁の味噌をすり、私が擂鉢(すりばち)を摑まえている時、台所の叔母と口喧嘩になり、不二彦が擂鉢をすりこぎで叩き割ってしまった。味噌は四方八方に飛び散り大変な事となった。私はびっくりして従姉妹と一緒に大声で泣いてしまった。という思い出があった。

 後年夢二の何回忌だったか、不二彦が和紙で大きな短冊を沢山作り、九月一日夢二の命日に雑司が谷に出掛けた。墓地の近くの家に集まり、著名な方々が見え、夢二会の面面も集まるなか、墓前で幹事から「一句お願いします」の一声に参加者はすぐさま、さらさらと書いて、夢二の墓のまわりの木に紐で下げたのであった。俳句や短歌がすぐさまできるのを目の当たりにして私は感動してしまった。

 私はその時何も作れなかった。これは勉強しなければと思い、あれから三十年ほど、私も俳句を作り続けているが、今は、見て下さる方々は、もういらっしゃらない。(了)

*旧字体のまま転載しています。

■みなみさんの人となりについて
2023年版「夢二研究会会報」がみなみさんの追悼号だったので、代表坂原富美代氏(夢二の最愛の女性笠井彦乃の姪)の言葉の一部をお借りしてご紹介します。

国会図書館で夢二の「東京災難画信」の掲載され た都新聞を見つけ、夢二研究会の協力のもと、欠落 していた回を探し出し、新聞記事を読みやすく打ち なおして解説を付け、パネルを作ってギャラリーゆ めじで展覧会を開きました。埋もれかけた夢二の貴 重な仕事の一つを蘇らせたといえます。展覧会中に は読み切れないことを心配し、じっくり読んでもらえるようにと、パネルの内容を図録にまとめて出版し、好評を博しました。
展覧会後、展示パネルは関東大震災の惨禍を永く 後世に伝え祈念する目的で建てられた東京都復興記念館に寄贈し、今では館に常設展示されています。図録も評判になりました。ここには夢二と共にがれきの東京をスケッチして歩いた有島生馬の大きな油 絵も展示されていて、その絵には夢二も描き込まれています。ここで二人が再会する形になり、みなみさんは大いに喜ばれました。
 みなみさんは山形県酒田市相馬楼内「竹久夢二美 術館」の名誉館長に就任し、各地で講演を続けていました。夢二没後すぐに発足した夢二会(夢二研究 会ではない)のメンバーとも交流があり、有島生馬、 岡田道一、長田幹雄など錚々たる顔ぶれの思い出も鮮明に記憶していて、貴重な語り部でした。
 みなみさんは染色家で、東京都美術館「新匠工芸」  染色部門に入選した実績があります。大作「流氷」は北海道知床斜里町にある北のアルプ美術館に収蔵 されています。
 夢二と彦乃が金沢湯涌の山下旅館で撮った写真で 彦乃が着ていた夢二デザインの網代模様の浴衣も復刻しています。
 竹久家の方々は芸術家がそろっていて、その作品 を集め、文化学院画廊で竹久四人展(不二彦・都子・ 野生(のぶ)・みなみ)を開きました。またギャラリーゆめじでは竹久三人展〈都子・野生・みなみ)を開催、 みなみさんの個展も開いています。夢二の血を受け 継いだセンスが光りました。
 みなみさんというと思い出すのは北海道の開拓団 の話です。初めてその話を聞いたのは岡山の夢二郷 土美術館で毎年開かれていた夢二誕生祭に向かう新幹線の中でした。あまり面白いので「現代女性文化研 究会ニュース」に寄稿してもらうことにして、12 回に 渡って連載しましたが、文章も力強く、記憶力の抜 群の確かさで、生き生きと語られる話の面白さには 感嘆させられました。
 みなみさんは幼少期、父の虹之介が離婚したこともあり、伯母にあたる夢二の姉松香の家や、夢二の次男で虹之介の弟不二彦の元で過ごしました。不二彦は友人の辻まこととイボンヌ(五百子)の 間の長女野生(のぶ)を養女にしていたので、不二 彦の家では8歳年下の野生と姉妹のように育てられ ました。
 俳句の勉強も続けていました。のびのびとした感 性の溢れる俳句は、みなみさん自身のお人柄と重なるようでした。
いつも朗らかに見えたみなみさんでしたが、夢二 の孫であることは時にみなみさんにのしかかる重圧 になっていたかもしれません。その重圧に耐え竹久家の一員として夢二を正しく理解してもらおうと努 力を重ねたみなみさんは、天国で夢二、虹之助、不 二彦たちによくやったねと温かく迎えられているこ とでしょう。嬉しそうなみなみさんの笑顔が浮かび ます。不思議な魅力を持った方でした。しみじみ、またお会いしたくなっています。
 
竹久みなみさん(右は榛名湖畔にて)