夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第5回「”生きている夢二式美人”を見た」(蕗谷虹児)

2024-10-13 09:03:03 | 日記

「花嫁人形」の画と詩で有名な蕗谷虹児は、父親の仕事の関係で行った樺太での放浪生活ののち東京に戻りましたが、友人らに連れられて菊富士ホテルの夢二宅を訪れました。1920年(大正9)のことで、夢二36歳、虹児は22歳でした。
夢二は虹児の持参した絵を見て雑誌『少女画報』主筆の水谷まさるを紹介を紹介したことから、虹児は挿絵画家としてデビューすることになりました。この時点では「蕗谷紅児」と称していましたが、翌年、竹久夢二の許可を取り、「虹児」に改名。朝日新聞に連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになり、『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判で時代の寵児となり、夢二と並び称されるようになりました。(Wikipediaより)
夢二宅を訪れた時の様子を掲載した文章をご紹介します。

 

■蕗谷虹児

*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)の「蕗谷虹児 夢二さんの画室」より
(注)本文は、蕗谷虹児が雑誌『令女界』に連載した、挿絵入り自伝小説「乙女妻」(1937年(昭和12)1月号~同年12月号11回目第一六巻第一Ⅰ号(宝文館)に掲載されたものです。東京・本郷の“菊富士ホテル”に暮す夢二を訪ねた一夫(虹児)のエピソードが綴られ、夢二の恋人お蔦(お葉)も文中に登場しています。

(そうだ、挿絵で身を立てると言う方法もあったのだな……)
一夫は、こう思い立つと、急に夢二さんに逢いたくなった。
(その頃、氏は本郷の菊富士ホテルにおられた。)
久しぶりに訪ねて行くと、
「来たね。」と氏は、静かに秋風のように笑った。
卓上には、楽譜の表紙のためらしい描きかけの絵が載っていた。
「春になったね。」
「ええ、僕は、春になると夢二さんに逢いたくなるんですよ。」
「なぜだい?」
煙草に火をつけて氏は椅子に凭(もた)れた。
「なぜだか、わかんないけど」
「なぜだか、わかんないけど―――かハハハ」
氏は、天井を仰いで煙草の煙を吹いた。
(夢二さんはいつ逢っても、一風変わった風態をしていられたが、この日は、紫紺(しこん)の袋頭巾のようなもので長髪を押えて、くち綿の、渋い八端(はったん)らしい地の丹前を着ていた。)
そこへ、お蔦さんが出て来た。
荒い派手やかな黄縞のお召に、繻子の昼夜帯を締めて、夢二さんが描く絵からそのまま抜け出して来たようなお蔦さんだった。
(こんな美しい人と一緒にいるので、夢二さんの絵はいつでも若いのだな……)
一夫は、お蔦さんの顔を見るたびにそう思った。
夢二さんは、絨毯の上へ描きかけの絵を置いて、そこへ胡坐(あぐら)をかいて描き始めた。
一夫は、椅子に腰を掛けたままその絵の仕上るのを見ていたが、見ているうちに、その画ペンの動きに魅せられて、甘やかな洋酒の酔心地のようなものを感じた。
敷じき物も窓掛けも、本棚も、卓子も椅子も、何処を見ても夢二式ならざるはないその部屋だった。
(夢二さんは、こんな綺麗(きれい)な部屋で、こんな綺麗な人と一緒に暮して、こんな綺麗な絵を描いている――倖(しあわせ)だな。)
一夫は、自分より二十年も齢上の夢二さんが、羨ましくなって来た。
「僕なんかにも描けるかしら――」
一夫が思わず言うと、
「挿絵をかい?描いてみたらどうだい。」
「描けるかしら――」
「好きなら描けるさ、――別にそううまい挿絵家も日本にはいないじゃないか――」
氏は、こう言って一夫に勇気をつけてくれた。

この二三日後に、一夫は、日米図案社の午休みの時間を利用して、T雑誌社を訪問してみた。
「何か御用ですか?」
編集長のT氏が、幸いに逢ってくれた。
「夢二さんが行って見よと言うので来たのですが、僕も挿絵を描きたいと思いまして――」
「ああ、そうですか、いままでどこかに描いた経験があるのですか?」
「ないのですが――」
「では、見本と言うようなものを持って来ましたか?」
「ええ。」
一夫が差し出したのをT氏は老眼鏡らしいその眼鏡越しで、一枚一枚、味わうように見てゆく――。
一夫は、その前の椅子にかしこまって、T氏の顎のところで、さっきから生物のように揺(ゆらめ)いている大きな瘤(こぶ)を、凝(じ)っと見つめていた。(完)

 
『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)


「花嫁人形」(1924年(大正13))


第4回「夢二の女性論」

2024-10-09 12:45:34 | 日記

今回は、夢二自身の声を聞いてみます。
夢二の語る京都の女性と東京の女性。
これを読むと、夢二がどれほど鋭い眼と感覚で街の風俗を見ているかがよく分かりますが、内容もさることながら、文章を読むと、まるで夢二が目の前で語っているような書きぶりです。当時のものの言い方を知る参考にもなります。「マインドを持たない」などという言葉が大正時代に出てきたので、当時の言葉使いに関する知識の乏しい編者は驚いてしまいました。
なお、難解な言葉等に関して、編者が文章の途中に適宜(注)を入れていることをご了承ください。

(『竹久夢二』(竹久夢二美術館監修、河出書房指新社)の「竹久夢二 女性論」より抜粋)
美人画をはじめ、時代を象徴する女性像を描き続けた夢二。同時に恋多く、理想の女性を生涯求めてやまなかったその姿は、マスコミからも注目され、女性論や恋愛論について執筆を依頼されることも多々あった。自身の思いや体験から得たこと、また女性に対するメッセージを、夢二は的確な言葉で書き表した。そしてそれらの文章は、いつの時代にも通じる普遍的な内容も多く、時代を超えて心に響くものばかりである。

「京都の女 東京の女」(『新家庭』第四巻第一号 1919年(大正8)1月)
 東京の女と京都の女と比較して話せって仰言(おっしゃ)るんですか。東男に京女って昔から言いますが、江戸の日本橋を振出しに東海道五十三次を三条大橋まで、俱利伽羅紋々(くりからもんもん)の籠屋が走ってた時分には――つまり禁裏様(きんりさま)が京の御所に御座った時分には京都も都だったのでしょうが、今じゃ京都は田舎の町ですね。そりゃね、中央政府が東京にあるからの、禁裏様が東京にお移りになったからっていう、外面的な理由からじゃないんです。
 誰でも京都に少し住んだ人ならすぐ感じることですが、京都という町には地方色(ローカルカラー)はあるが、有機的な都会生活ってものがありませんね。あれで大阪は、大阪らしい文化と生活内容を持っています。この点では、東京と大阪という比較の方がおもしろいでしょう。早い話しが、京都の廓(くるわ)でも大部分は大阪、神戸の金が落ちるんだそうです。東山から南禅寺畔へかけての別荘や妾宅は大抵、大阪、神戸の紳士の持物だそうですからね。祇園一流の美妓(びぎ)が、昔ながらの赤前垂れの茶亭(ちゃてい)へゆくより、たとい小店でも、たんまりご祝儀の出る方を喜ぶって言いますものね。この間も京都で中沢さん(画伯)に逢った時の話ですが、「だん子も好きだったが、旦那が出来てひどく感じが下等になりましたね」と言っていました。あの狭い下河原の浮世小路を自動車で乗廻したり、日傘の代りに埃及(エジプト)模様の洋傘(こうもり)をふりまわしたり、毛のあるショールをかけて、まずい一品料理を食べに歩くようになったんですものね。私は必ずしも懐古的な古い物ばかりが好いって言うのじゃないんです。昔の話に、ある舞姫が台所の釜の火が燃出ていたのを女中に注意したら、舞姫がそんなことに気を付けるようじゃいけない、たとい家が焼けても平気でいるものだと、おっ母さんになる人に叱られたというが、そんな事を今時言う人間もあるまいか、また聞く人もあるまい。
(注)
・「東男に京女」:男は、たくましく、意気な江戸の男がよく、女は、美しく、情のある京都の女がよい。また、この取り合わせは似合いである。(精選版 日本国語大辞典)
・「俱利伽羅紋々(くりからもんもん」:博徒など、やくざが背中に彫った倶利迦羅龍王のいれずみ。また、そのいれずみをした人。転じて、いれずみ。(精選版 日本国語大辞典)
・「禁裏様(きんりさま)」:天皇を敬っていう語。禁中様。禁廷様。きんりんさま。(精選版 日本国語大辞典)
・「祇園(ぎおん)」:京都市東山区の一地区。四条通が東山山麓の東大路に突当るところにある八坂神社の西門前から西は鴨川までの四条通南北一帯をさす。地名は八坂神社がかつて祇園社と呼ばれたことに由来。祇園社は貞観 18 (876) 年の創建と伝えられ,鎌倉時代に鳥居前町が発達したが,応仁の乱後衰退。江戸時代初期から再び祇園社や清水寺などの参詣者を相手に茶屋が並びはじめ,中期には遊里として認められ,以後歓楽街として発展。現在も茶屋,料亭,バーなどが多い。京都では八坂神社を「祇園さん」,茶屋町を「祇園町」と呼び分けることもある。大みそかの夜から元旦にかけて八坂神社に詣でる「おけら詣り」や,7月の祇園祭でにぎわう。(ブリタニカ国際大百科事典)
・「美妓(びぎ)」:美しい芸妓。美しい芸者。(精選版 日本国語大辞典)
・「赤前垂れ(あかまえだれ)」:赤い色の前垂れ。また、それを掛けた女。近世では、宿屋の女、茶屋女、遊女屋の遣手(やりて)などの風俗。(精選版 日本国語大辞典)
・中沢さん:中澤偉吉。日本画家・中澤霊泉のこと。長野県生まれで号を霊泉とした。京都高等工芸学校(現国立京都工芸繊維大学)図案科を卒業。夢二による大正12年(1923)5月の「どんたく図案社」結成の宣言の中に「同人」として中澤偉吉・久本信男・奥地孝四郎の名が見られる。
・「埃及(エジプト)模様」:古代エジプトの工芸品にみられる動植物などの幾何学的な模様。(精選版 日本国語大辞典)

 今の京都には、随分新し好みの人間が多くなった事なんです。そしてその新しさに、自分のうちの生活から自覚したんじゃなくて、東京の方から影響された珍らし好みなんですね。早い話しが京都の若い画工が、東京で出版される新しい雑誌や訳本やから、つまり活字に影響せられて、長い歴史のある伝統的な日本絵具の顔料の科学的な性質も考えずに、無暗と新しがってるとこなんぞは――そしていうことが好いじゃありませんか、「林檎は赤いね、若い生が踊っているね」ですとさ。こんな風潮はジャナリズムとでも言いますか一体に上方の字の読める新しい人間は、東京の者といえばなんでも飛付くんですね。それでいて、また恐ろしく土地自慢で、味方びいきです。

 私の知ったある夫人が(夫人というのは勿体ないが、この夫人のことは、ある機会に纏(まとま)った物語を書くつもりですが)恐ろしく新しやなんです。無論、教養のある人じゃないし、京都の貴婦人社会に交友を持った代表的な人じゃないんです。ただその新しがりな点を除けば、まあ、中京あたりの御内儀の好典型といってもよいでしょう。何とかいう劇団の女優や男優を自分の家へ泊めたり、知名の芸術家に近づきになったり、自動車の運転手に見知られていたりすることが好きなんですね。『三越タイムス』かなんかを愛読して、流行品といえば何でも買込んで、めったやたらに引被(ひっかぶ)るんですよ。一体京都の女は、着物を着るんじゃないんです。ただ身体に巻きつけるんです。帯の結び方も知らないんです。祇園あたりの女でも、あったら上等の帯を、くるりと巻きつけて、もさりと結んでいるんです。だから、着付がすぐにくずれて、腰から下はまるで都腰巻をはいたような恰好になるんです。元来、人間の体の最も効果的(エフエクテーブ)な美しさは、立姿にあるんです。人間が他の動物より進化論的に区別できるからだそうです。どんな動物でも脚を一直線に延長して、足の甲と直角をなす位置で直立することはできないそうです。動物は必ず膝を曲げて立っています。「布団着て臥(ね)たる姿や東山」全くそうです、山が眠っているように京都の女は坐っている方がよほど美しいようです。それで自然に、立姿の審美的考察が後(おく)れたのかもしれません。だから着物や帯は、素晴しく金の高い代物をつけていても下駄(げた)だの足袋(たび)だのは何でも平気なんですね。足袋なんぞは一文位い足より大きいのを穿いてますね、早く切れるからだそうです。
 夏になると白っぽい着物の下へ黒い襟をかけます。私ははじめ、これは審美的な、コントラストの美しさを知っているのかと思って、きいて見たら夏は襟が汚れるからだそうです。
 夏と言えば、京都では浴衣を外出する時、決して着ませんね。浴衣がけで歩く女は、よくよく着物のない貧しい女に見られるからだそうです。ドストエフスキイの本の中に「人間は貧乏なことは恥じないが、ただ物を持っていないことを恥じる」とあったのを覚えていますが、京都では、そうじゃないんです。貧乏なことも人間の恥辱であり、持っていないことは死ぬよりも辛いことなんです。だから人間が物を持つためには、どんな手段を尽くしてさえも平気なんです。昔から「粥っ腹」だの「京のお茶漬」って言いますが、食物は食わないでも、晴れの日に着るものの一通りは持っていないと付合が出来ないんです。だから自分に快適な着物とか、好尚(こうしょう)から作った物というのではなくただ「あてかて持ってまっせ」という示威運動の一つに過ぎない。

 ある中京(ちゅうきょう)の娘さんの話に、毎年誓文払(せいもんばらい)(これは東京でいう大売出しで、今日にはいろんな見切物が出るんです)の日に呉服屋でいろんな着物を買ってくるが、母親が惜しい惜しいと言って古いのから古いのから手を通すし、それにめったに着せてくれないから、流行物なんかきられませんといったのを聞いた。なんでも勿体ながって、最近にも、お仏壇へ上げたあんも(これはあんの入った餅)を日が経ってから、お下げして子供に食わせたので、兄弟三人の子供が入院してとうとうそのために死んだと聞いています。一家族の内にさえこの新しさと、この因縁とがすこしも調和されずにこんがらがっているんです。京都の町全体としても、大阪の方から来る物質的圧迫と東京の――わけてもジャァナリズムからくる思想的文化が渦をまいて、調和しないで、消化されないでいるようです。ある人が京都を評して、中枢神経のない思想生活のない田舎町だと言ったことは一面の観察だと思います。しかし、京都人には恐るべきアナボリックな所がある。本当に人間が、人間の一人として愛に満ちた正しい純な生活を生活しようという誠実は、少しもないように見える。ほんとのことを決して言わない、こちらがほんとのことを言うのを不思議がるばかりでなく、裏をかいて、まるで反対な意味に取っていることが多い。
(注)
・粥っ腹:粥腹。粥を食べただけの腹。力が十分に入らない状態をいう。「―では力仕事ができない」(goo国語辞書)
・京のお茶漬:「ぶぶ漬け」とは、お茶漬けのこと。「ぶぶ漬け、どうどす?」と、訪問先で勧められたら、そろそろお帰りくださいというあいさつで、本気にとれば笑い物になるというのが京都のぶぶ漬け伝説です。京都人のイケズを象徴する話として、落語「京の茶漬」のように、まことしやかに語られますが、実際に経験したという話は聞いたことがありません。本来は、「何にもないけど、ぶぶ漬けでも食べてゆっくりしていってくださいね」という京都流の控えめなやさしさの表現のようです。こんな話が生まれたこと自体、きっと昔から京都の人々の暮らしの中でお茶漬けが身近な食べ物だった証しなのでしょう。試しに歴史をひもとくと、江戸時代の商家などでは、朝や晩にしょっちゅうお茶漬けを食べていた記録が見られます。それも、なぜ朝晩かというと、当時の京都では昼にご飯を炊く習慣があったからです。お茶漬けは、冷めたごはんをおいしく食べる知恵でもあったに違いありません。京都には、ちりめん山椒、漬物、塩昆布など、お茶漬けの友がたくさんあります。好みの「ぶぶ漬け」を味わってみるのも楽しいですね。(京都観光Navi)
・好尚(こうしょう):このみ。嗜好 (しこう) 。また、はやり。流行。(goo国語辞書)
・アナボリック:anabolic「《生物》同化作用の」の意。(英辞郎)カタボリックとアナボリックとは専門用語で、もしかするとトレーニング愛好家の方ならご存知かもしれません。カタボリックは「異化作用」のことを指しており、体内にあるものを分解・消費してエネルギーを作り出している状況のことで、人体では体に蓄えてある糖質や脂質、タンパク質を分解しエネルギーを作ることを指しています。ダイエットの際に脂肪が減少したり、筋肉量が減少するというのをイメージしてください。一方、アナボリックは「同化作用」を意味しており、カタボリックとは反対に食事などによって体内に入った栄養を素に脂肪や筋肉といったものに作り変えて貯蔵する働きのことで、トレーニングによって筋肉が大きく太くなることがまさしくそれです。(COMP(初心者専門パーソナルトレーニングジム)のHPより)

 河上博士の「貧乏物語」という論文が大阪朝日に出ていた頃、私は何という皮肉だろうと思っていました。   
 京都の女は皆それぞれに市価を持っていることは、恐るべき進化かあるいは羨(うらや)むべき退化です。古代ブリトン人の婚姻制度よりも徹底的に優秀な習慣を持っている。祇園の女で千や二千の貯金のない舞妓はないと聞いています普通の家庭の女でも、自分の所有に属する着物を男に作らせるとか、良人(おっと)に内密で金を貯えておくことは、ごく普通のことになっているらしい。(編者注:2文ありますが原著のまま記載しています。)私が使っていた京都生まれの女が「私も身売りをしようかしら」とある時都踊りを見せての帰り路で、真面目に言ったのを聞いて驚いたことがあります。
 食うに困るからというのではない、どうかしてより多くの着物を、より美しい帯をしたい。またより多くのお金を貯金したい欲望が唯一の目的なんです。
 京都の舞妓はマインドを持っていない。
 祇園小説で有名なM君のものに「京都の舞妓は客をつかず離れず実に快く遊ばせる方法を知っている、例えば、舟遊びをしても、月夜の風流を解し、決して客の歓楽を妨げるような騒ぎをしない」とあった。「それに引換えて、東京の女はすぐに客の歓楽の中へ飛び込んで来てうるさい」というような意味が書いてあった。それが京都の女はマインドを持っていないように見えたり、意志生活のない女たる証拠だといえる。またその本に「京の女は無知」だともあった。これもやはりマインドを持たない一つのあらわれだと言えると思う。
 実際、京都の女は、功利的な実際生活を徹底的に体現しているようです。恐らく京都の女は人間に惚れたら、男を愛することを知らないように見える。彼らの同棲や婚姻はまさしく一種の商取引なんです。
 ある祇園の名妓が、自分の世話になっている男の仕事が本願寺の坊であったということを三年間知らずに過したというような事は、いかに、彼らが人間の心の問題に無関心で、単純に肉体の上の域は物質の上の取引だけに満足して生きてきたかとうことを、明らかに語っているかがわかるのである。

(注)
M君:おそらく長田幹彦のこと。長田幹彦(ながたみきひこ、1887―1964)
小説家。東京・麹町(こうじまち)生まれ。兄秀雄(ひでお)の影響で新詩社に入るが、脱退して『スバル』に参加して文筆活動を開始。早稲田(わせだ)大学在学中、北海道を放浪、そのときの旅役者生活に取材した『澪(みお)』(1911~12)、『零落(れいらく)』(1912)で一躍新進作家として文壇の花形となった。そのころ1年ほど谷崎潤一郎とともに京阪に滞在、のちに、『祇園(ぎおん)夜話』(1915)など祇園物とよばれる作品群を執筆、潤一郎と並称される耽美(たんび)派の代表的作家となる。(約300の長編と約600の短編に亘る多量の作品を書いたという。)しかし赤木桁平(こうへい)の『遊蕩(ゆうとう)文学の撲滅』(1916)論で打撃を受け、情話物の流行にのって読者をひきつけはしたが、作品は通俗化していった。昭和初期からいわゆる歌謡曲の作詞家として『祇園小唄(こうた)』『島の娘』など多数の作品を残し、第二次世界大戦後は『青春時代』(1952)などの回想記や通俗小説を執筆するかたわら心霊学の著作なども残した。(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)
夢二が数多くの作品の装幀をしている。また、「祇園小唄」の作詞者でもある。
★「祇園小唄」(作詞:長田幹彦、作曲:佐々紅華)
1 月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ
2 夏は河原の夕涼み 白い襟あしぼんぼりに かくす涙の口紅も 燃えて身をやく大文字 祇園恋しや だらりの帯よ
3 鴨の河原の水やせて 咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声 枯れた柳に秋風が 泣くよ今宵も夜もすがら 祇園恋しや だらりの帯よ
4 雪はしとしとまる窓に つもる逢うせの差向(さしむか)い 灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて もやい枕に川千鳥 祇園恋しや だらりの帯よ
『祇園小唄』の歌詞で締めに繰り返される「だらりの帯」とは、京都の舞妓が着る振袖のだらり結びにした帯を指す。見習い期間に姐さん芸妓と茶屋で修業する際は、半分の長さの「半だらり」の帯となる。舞妓の初期における髪型は「割れしのぶ」。店出しから間もない年少の舞妓が結う髷(まげ)で、「ありまち鹿の子」や「鹿の子留め」など特徴的な髪飾りが目を引く華やかで愛らしい髪型。『祇園小唄』の歌詞で「しのぶ思いを振袖に」とあるが、この舞妓の髪型の名称と無関係ではないだろう。(以上、サイト「世界の民謡/童謡」より https://www.worldfolksong.com/index.html

 私は随分長く京都の女の抽象的な観察ばかりお話ししたようですからもはや東京の女のことを言う時間がなくなりました。今少し具体的な風俗についてお話しして、このつまらない話をやめましょう。
 三年振りに東京へ帰って、一番目についたのは、若い女の人の髪の形です。束髪の前髪に毛たぼを入れないでずっと引つめて、後ろの方へ突き出した(と口で言っては、感じがわるいが)束髪を多く見たことです。これはミッション、スタイルでしょうが私が四年ほどまえにある少女雑誌へ、私の好きな髪として、出したことのある、ギリシャ巻という束髪です。私の好きな束髪が流行りだしたのを見て、私は実に嬉しい気がしたんです。実にあれが好きです。あの髪を結うと、すぐに私はギリシアン鼻(ノーズ)を持った、首の長い、眼窩(めくぼ)の低い美人を眼に描くことができます。そして、横顔がわけても一番センシアルな耳朶(みみたば)と襟足を露に惜しげもなく見せる点で、まことに美しい髪だと思います。
 芝居で見たってそうでしょう。あのでこでこの毛たぼのあんころを入れた束髪で愛人の胸へ頬をよせる場面(シーン)を想像して御覧なさい。男の胸のとこで盛綱の首実検よりもかさばっちゃ次の白(せりふ)が出ようがないじゃありませんか。
 京都の女の髪は一体に鬢(びん)を張って、その上帯をば、極めて、シンメトリーに大きくもっさりと結んで広げてありますから、釣合いは好いか知りませんが、気の利いたものじゃありませんね。その上、京都の女は脚に人体の重心の中心を置かないで、尻で歩いているように見えます。これは今少し科学的に研究して見たら面白いでしょうが、今はやめます。
 要するに京都は趣味の町です。骨董的な町です。総ての行楽も芸能も、ある伝統的な趣味が出ないようです。舞妓が時雨(しぐれ)をきく風流も、時の鐘を数える風雅も、彼等には実感のない日常茶飯事にすぎないのです。
 四条通の飾窓をみてあるくと、どこの飾窓にも半切画の一枚、色紙の一枚、盆石の一つはきっと出してあります。ある貴金属を商う家では、五千円のダイヤの指輪にならべて二円五十銭のほどのガラス入の金の指輪が出してある。つまり持っていないものは、切(せめ)てそれらしいものでも持っていないと恥しいという、需要者の心持が、ちゃんと表象してあるんです。
 旅人が京都の町を歩く時、あなたは、青や黄や茶色のおそろしく原色の羽織をきた女やまた、たいへん質のいいものでありながら帯も着物も履物も、調和も統一も対照もないない上等な風俗を見るでしょう。また電車の停留場でのろい電車の来るのを、実に、何十分でも我慢して乗換切符を無駄にすまいと心掛けて、立ちつくしている御内儀を見出すでしょう。
 また、夕方円山や清水坂の方を歩いていると、軒下から走り出て、「異人さん銭おくれ、銭がなければおまん(饅頭)おくれ」と呼(さけ)んで路をふさぐ、男の子でも縞の前垂れをした、いたいけな子供を見るでしょう。
 山紫水明の京都へ遊ぶ旅人は、朝(あした)に清水の欄干に立ち、夕(ゆうべ)に黒谷の晩鐘をきいて、時雨に逢っても決して傘をお買になるな。(了)
(注)
・毛たぼ、毛たぼのあんころ:地毛の中に入れて、まとめ髪やヘアアレンジのボリュームアップを図るものです。そのためつけ毛ともいいます。また詰め物の意味でしょうか、「あんこ」ともいいます。盛り髪のためのかさ上げアイテムと言えますね。最近ではシニヨンの中に入れて髪の量を増やして見せるためなどに使われています。本来、「たぼ」とは日本髪の後ろに張り出した部分のことです。(サイト「頭美人」より)
・(注)眼窩(めくぼ):目のくぼみ
・センシアル:“センシュアル”のこと。官能的である、官能的なさまという意味を持つ言葉です。それ以外にも、肉感的という意味もあります。主に色気や外見的な特徴、ファッション、人間の内面性を表す言葉でもあります。セクシーとは似ているようで違います。(サイト「BELCY」)*現代の意味合いです。
・盛綱の首実検:浄瑠璃「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)」八段目で、主人時政から弟高綱の首実検を命じられた盛綱は、高綱の子小四郎の命をかけたけなげさに感じ入り、にせ首と知りながら高綱の首だと答える場面。(『精選版 日本国語大辞典』より)鬢(びん)を張る:江戸時代、婦人が鬢に張りを持たせるために、その内側に鬢張(びんはり)を入れた。鬢張は、鯨のひげ、針金などで作った。上方での称で、江戸では鬢差(びんさし)と呼んだ。(『精選版 日本国語大辞典』より)
・シンメトリー:上下・左右の対称(相称)
・盆石:盆上に雅致のある自然石を立て小石等を配して山水その他の風物を描写するもの。室町時代から置物として観賞されてきた。石州流,細川流,遠州流等の流派があり,それを作る(打つ)場合の態度,手順などの作法が定められている。(『百科事典マイペディア』より)
・御内儀(ごないぎ):貴人または相手の妻を敬っていう語。おないぎ。御内室。御内証。御内方ごないほう。(『デジタル大辞泉』)
・前垂れ(まえだれ):「前垂れ」は、おもに商人が和服の上にしめるもので、特に腰から下の前面部分に垂れ下げる布をいう。(『goo辞書』)
・山紫水明(さんしすいめい):日に映じて、山は紫に、澄んだ水は清くはっきりと見えること。山水の景色の清らかで美しいこと。(『精選版 日本国語大辞典』より)





第3回「絶頂期の夢二へのアンケート結果」

2024-10-07 12:58:33 | 日記

1913年(大正2)8月、大阪毎日新聞が夢二にアンケート調査を行いました。
この頃の夢二は、前年11月に京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」を開催し大好評となり、3か月後には恩地孝四郎装幀の「どんたく」が刊行されるという絶頂期です。
外遊の決意をし、翌年には岸たまきの自立のために「港屋絵草紙店」を開店する夢二の回答が新聞発表されていますのでご紹介します。
好きな色が「女の皮膚」だったり、好きな花が「月見草」だったり、「夢のさめぎわ」が好きだったり、「まだ見ぬ国に行きたい」とかインドに住みたいとか、夢二のその頃の思いが詰まっています。

大阪毎日新聞アンケート (1913年(大正2)8月)

 

質問

好きな色

女の皮膚と太陽の光

好きな花

月見草

好きな樹木

ポプラ

好きな季節

南国ならば春により夏にかけて、北国の冬の室内。

一日の中の好きな時間

いつにても夢のさめぎわ。

好きな遊戯と娯楽

遊戯はベースボール、娯楽は…資格は自分の仕事に近ければやはり感覚と聴覚を刺激(撃)するものが欲しい。

好きな書籍

小説はバイブル。詩歌は白秋の詩の或物。

好きな時代(住みたいと思はるる時代)

王室に生まれなば埃及(エジプト)の国に。名門に生まれなば平安時代されど所詮は空想に過ぎざれば今の所をさだめずまだ見ぬ国へ行きて見たし。

世界中で住みたいと思ふ所

印度。

好きな絵画、好きな彫刻

いかなるものも面白きけれど、別に好ましきものなし。ムニエの或物。

好きな音楽、好きな芝居

三味線にてうたふ日本の歌。ショウの馬盗人、紙治、井上正夫、吉右衛門、鴈次郎、梅幸。

好きな動物

乗るために馬を好む

好きな名前

無回答

好きな歴史上の人物

無回答

外に好きな歴史上の人物

無回答

外に好きな職業を選んだら

無回答

一番幸福に思ふことは

無回答

一番不幸に思ふことは

無回答


第2回「恩地孝四郎(『夢二スケッチ帖抄』より)」

2024-10-02 09:24:50 | 日記

今回から、恩地孝四郎の夢二感をご紹介します。原文が長く旧仮名遣いで段落なしのため読みにくいですが、そのまま掲出します。難解な言葉は途中に注釈を入れています。
*『夢二スケッチ帖抄』復刻版(未来社)の編者解説「夢二のスケッチ帖」より

(注)本書は恩地孝四郎主宰・編集の趣味雑誌『書窓』第六巻第六号の特別号として昭和13年(1938)11月アオイ書房から発行されたもので、1000部もしくは600~700部と言われる。(復刻版「復刻にあたって」(高木護)より)

 玆(ここ)に収められた故夢二のスケッチは、いま有島生馬氏に保管されてゐる五百に余るスケッチ帖、手帖のなかから撰み輯したものである。この一山のスケッチ帖、併しこの外に尚幾多散逸したものがあることは推せられる。が、幸にもよくも保存せられたものと思ふ。夢二は之らを大切にしてゐた、ほとんど初期の明治四二年のものからあり、彼の頻々たりし轉住にもよく散逸しなかつたものである。彼はしばしば放恣な生活者のやうに輕傳されたゐたがこの一事をみてもそれが皮相の即断なることが知れやう。彼は常にスケッチ帖を懐中してゐた。ポケットからその結び紐のたれてゐた姿をいまも懐ひ出す。画材にあふや、それが電車内でも途上でも、素人裡でも忽ち鉛筆を走らす彼であつた。スケッチすることが恰も呼吸するが如きである。後年にはこの外でのスケッチは稀になつたが、それでも懐中の手帖が、必要時には画帖となるのであつた。その最も盛なりしは、明治四四年頃であり、丁度画集が四季出きつて彼の名が青年子女を咳関してゐた頃であり、著、野に山に、都會の巻が出、翌年にかけて、櫻さく島、櫻さく國、が出た頃、それから二三年に亙(わた)る。繪は自分にとつては内部生活の報告だといつた彼、強ひて画くには當たらない、美しいものを感じてゐるだけで満足だといつた彼、繪と生活とが不可分に考へられてゐた彼にとつて、對象に興を得るた忽ち寫すのスケッチは誠に彼の感情そのものであり、生活そのものであり、皮膚であり肉であるのである。數多い画集の仕事の終わつた後の彼の画作は、それが誌上のものでも又画布ものでさへ、常に屢々(しばしば)強ひられた繪であり、パンのための止むなき書作であつたが、スケッチだけは常に純粋に彼の喜びであつた。そこには彼を束縛する何もない。ただありとすれば時間的な制限である。だがこれは却って彼の走筆を充實させ、いろいろな座右念を拂ひ落し、画を彼そのものとして純粋にする、彼にとつての最上の状態であるといふべきだ。かれの画には、スケッチでない繪には強ひて加へた拗態や、誇張にすぎる過剰な情緒がある。だがスケッチではその余地がない。しかもそこに自ら表はれる憂婉さは、彼の装はれざる面目の現はれであり、眞の彼そのものである。夢二の藝術にその誇張された殉情味を又それを表はす拗形を嫌ふ人も、これらのスケッチ画をみるときには自ら、彼の優れたものを率直に感ずるであらう。勿論彼の画の、そして人の本質は、英雄でもなければ國士でもない。一市井人としての、又一個の人間としての素朴な感情の表出であつて、決して偉大型ではない。が人間生活に於いて、之も又偉大なるものの一つであることは忘れられてならないのである。今まで全く塡(うずも)れてゐた彼のスケッチ画を画帖から直接上版刊行し得たことは、誠に刊行者の個人に對する熱愛の故であつて此れが世に上されることは、彼の正しい理解のためにも喜びに堪へないし、又この時代の驕兒の藝術の核心を示すことの出来たのは画に携るものとして又遺された友として欣び深いものである。彼の身がそこに置かれてゐたその時代をその姿を丹念に又執拗に、追及していつたな生の記録である之らのスケッチは、一に時代の記念としても、ただそれだけでも立派に存置させられるべきだ。此の又さうした成心なく描きとめられた之らのものにこそ更に的確な、如實な記録がなされてゐるのである。その内容が、その範圍が何であるかは茲(ここ)に云ふまでもない。画自身が最も正確に之を語るであらう。思へば泰西文化の吸収が蓄積されて、繁華な姿を成してゐた明治文化、折から世紀末のデカダニズムを引きつつ而も、新らしい世界への暁望に薀醸(うんじょう)しつつあつた明治末から、改元新らしき世紀の具体化に揺曳(ようえい)してゐた大正初年の気運のうちに行為されてゐた生活相は、日本の文化史の上からも貴重である。ペンいささか岐路に奔つたが、いまかうして夥しい數の夢二のスケッチ画をみてゐると、彼の畫のうまさが泌々感ぜられる。ロダンの、かのモデルから殆ど目を離さずにかいたといふ流動的なスケッチに似た生気も見られるし、瞬時よく捉へた姿態の美しさも自由に示されてゐる。女容を描いて實にその神髄を傳へてゐるものである。命名ずきな世間は、夢二を捉へて大正の歌麿といつた。もし時、往時の錦繪全盛時代の如く、錦繪が行はれてゐたら、誠にその如く多くの女態の傑作を残したであらうに、雑誌等の舞台に踊らされ後世散逸して了つたのは、やはり無念である。が、茲(ここ)にその精髄であるスケッチ集を遺しうるということは、その遺憾を償うて余りあるものだ。夢二の繪が、夢二の詩が、夢二の物語がさうである如く、スケッチにあつてもその題材の範圍は廣くはない。何物も究めようとするリアリストの態度は彼にない。一つの憧るるものを取り出すロマンチストの姿が、スケッチにも示される。彼の數多いスケッチ帖を飜(ママ)いて驚くことは、二十數年に亙(わた)ってその題材が殆ど同一(原文は旧字使用)な、五六種類に限られてゐることである。女態にしてそれが云へる。同じ原文は旧字使用)姿態が何遍も現はれる。蓋しこの撰まれた姿態を追ふために、對象の種類が限られ狭斜(きょうしゃ)の巷の女に劃られた(ママ)のではないのかと思はれる位である。つくろはれたる形は殆どない。風景にあつては、荒涼さや、廣漠さを示すやうなそれ、街景にあつては、好んで裏街や路地が丁度油畫の故佐伯氏が夢二に似てゐるとはれた位にである。大川端や渡し場、浅草などについては別記したが、それらは年を隔てて猶(なお)全く同一(原文は旧字使用)の所から描かれてゐること廔々(ろうろう)である。此内あさくさについては特に云はねばならない。彼の公表作にも廔々見られてゐるが、之に關するスケッチは實に多い、當時―彼のスケッチの最盛期であつた明治末大正始頃の浅草は、東京の盛り場の最たるもので、唯一といつていい位の遊樂地であつた。浅草寺観音堂を中心に仲見世には地方人の土産物を賣る小店が櫛比(しっぴ)し、六區公園隅には代表的な映畫館が立ち並び、但し當時は活動寫眞館といつていたが、いろいろな娯樂施設を用意したルナパークなどが隣接し、そして浅草をシンボルする十二階が聳えていた。外のはまづ現状大差ないが之れはもうない、その十二階したと呼んだ軒並の賣色(ばいしょく)の家には夜を鬻(ひさ)く(ママ)女たちが群れ、公園のベンチには、浮浪者たちが眠り、暗い小路などには不良兒が待ちかまへ、歓樂と悪行のるつぼであつた。青年夢二が、茲(ここ)をオアシスとし道場としたのは當然であつたであらう。浅草のスケッチは幾帖かを成してゐる。鑑賞の自然さを思ってそれらはなるたけまとめたため年代が多少混戦してゐるが、とまれ彼の浅草は數年に亙つてゐる。之らの諸画が、遊冶(ゆうや)生活の所産だとするのは當らない。關係は蓋(けだ)しその逆であらう。彼にとつて女は美しければいい、又生活的には純情であればいい。だから彼の方向がそちら向になつただけなのである。カフエの女といふのが廔々(しばしば)現れる。當時、カフエは正にミルクホールに入れ變(かわ)つて新しい流行を來たさうとした頃である。今のカフエよりもつと素朴であり、明るい。今の喫茶店のやうにドライでもない。小レストランである。その女の子が廔々現はれるのである。活動の娘は和服の上に黒い上っ張り黒足袋で薄明のなかに顔と手を浮かしてゐた。おとなしき明治末大正始である。浅草では玉乗りがある。江川一座が常設されてゐた。祭の店ものも彼の長い題材だ。猿芝居は妙にいぢらしかつたのであらう。祭は彼のいい題材の一つである。ことに祭のすんだのちの落莫(らくばく)感情からよく描かれてゐるが、スケッチでは余りいいのが見當らなかつたので省いた。形としてはよくないためであらう。面白いのは田舎の人がよく描かれてゐること。これは彼の素朴な感情への共鳴と、何か無知な感へのいぢらしさであらうか。母子は廔々かかれてゐる。茲(ここ)に彼の見えざる母への思慕が現はれてゐるのだと思ふ。
(注)
・櫛比(しっぴ):櫛 (くし) の歯のように、すきまなく並んでいること。
・賣色(ばいしょく):売春
・遊冶(ゆうや):遊びにふけること
・落莫(らくばく):勢いが弱くなって、物寂しい様子
・十二階:東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔。1890年竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年関東大震災で半壊し解体された。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られている。

家庭の人物は彼の家族がかかれる。所謂夢二式の女を成した環女は初期に、京都時代には日本画を描いた彦乃女が、そして後期には「お葉さん」が。童兒へは深い愛着で彼の二兒が各時期に亙り寫し留められてあるが、割愛した。彼の著作にも波があるが、スケッチでも差動がある。前期盛期を過ぎては、緩慢となり、その状態を長く引いて松澤村定住に迄至ってゐる。いま彼のスケッチを時代的に見ると、初期は彼の先駆者とみるべき明治末の清麗な挿畫家一條成美の筆致の下にあり、僅に彼の萌芽を見せるに過ぎない。大半は収めない。彼の特質がはつきりと流動してゐるものは一九一〇年以降で、一九一一年が最頂で一三年くらいに至る間であらう。本輯又その期を主としたが、秀作の量も多いのである。彼の文字的著作の多い中期には余り見るべきものがない。が、後期に至っては果して緊縮した筆致を見せ充實したスケッチを残してゐるのである。題材も女は闇の女をすてて藝妓にうつてゐる(ママ)。但し此點はもつとずつと早い。闇の女は他の時代に及んでゐないのは又、それらへの渉猟(しょうりょう)が早く切上つてゐる証左でもあるし年齢とも並行した結果であらう。外遊中の夥(おびただ)しいスケッチはこの人として當然である。之らは既に前集、竹久夢二遺作集で見られたであらう。ただ、女のスケッチは甚だ生彩がないのは、彼がいかに日本のキモノと共に生息してゐたかが覗へる。日本の着物は女の感情の微影までを傳へ表はすといつた彼である。といへば、スケッチ帖の山をくづし乍ら有島氏もいはれたが、彼には裸体のスケッチが少い。之も右述の理念のためであり、衣を纏(まと)つてこそ美しいといつた彼には當然であり、わざわざしつらへたものをかくことをしなかつた彼に、所謂裸体がないのは必然である。自然状態に在ては裸形は化粧時と浴時だけである。だから夢二のスケッチのそれはこの状態だけである。一四七の浴女はさしてよいものでないがおそらく甚だ速寫であつたであらうこれにも、よく女の姿態はつかまれてゐる。しつらへられた裸体クロッキーではない。尚、本輯の画に加へられてる色は、夢二君がいつも黒と共に携行した、ババリア出來ジヨンファバアの素木軸の色鉛筆の色を模したので、之らの賦色(ふしょく)はすべて速寫時同時に加へられたものである。あとで加へたと推せらるるものは集中二三しかない。加へられた此一色がいかに溌溂(はつらつ)としてゐるか。茲(ここ)にも彼の才能が見られる。(了)
(注)
・渉猟(しょうりょう):広くあちこち歩きまわって、さがし求めること。
・一條成美(いちじょうせいび):男性、1877年9月25日 - 1910年8月12日。長野県東筑摩郡神林村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)を中退後、1897年長野県庁に奉職し土木課製図係となる。菊池容斎の画風に私淑し独学で日本画を学び、上京して渡辺省亭に師事する。与謝野鉄幹の『明星』の表紙画や挿絵を担当し、日本画と洋画を折衷した作風で有名となるが、明星第8号の挿絵が内務省により発禁処分を受け、1901年出版元の新詩社を退社した。その後は新声社、博文館、冨山房、三省堂など各出版社の文芸誌や、河井醉茗の詩集『無弦弓』、中村春雨の小説『無花果』などの挿絵や装丁を手がけ、東京高等師範学校の嘱託を務めたこともあったが、1910年に東京府豊多摩郡淀橋町(現東京都新宿区)の自宅で死去した。死因については詳細は不明だが、過度の飲酒が原因だろうと旧制中学の同級生窪田空穂は回想している。(wikipediaより)
▼夢二のスケッチ(『夢二スケッチ帖抄』復刻版より)
  
▼外遊中のスケッチ(『夢二外遊記』(長田幹雄編)より」)