追放と王国
女性のグループつくりは、パラノイアに準拠する。
妄想性パーソナリティ障害を基軸として、悪感情が錯綜する。
これまで平穏無事に過ごしてきた日常が180度変換する。
それは、王国からの追放に喩えられる。
パラノイアの世界を破壊する者は
より強固なパラノイアによって、排斥し、消滅させなければならない。
これが、女性のグループつくりの本質である。
王国を追放された女は、新たに、自己流のパラノイアの世界を再構築しなければ生きられない。
自分にしかイメージできないパラノイアの世界が、自分の王国。
生きるも自由、死ぬも自由、転落するのも自由、隣の王国から自由を奪われない自分の王国。
頭の中に浮かぶ妄想を書き言葉に変換することが、王国をつくることである。
頭の中にあるイメージを小説に置き換えることが、王国をつくることである。
カフカの「変身」を読み、文章を書き替えてみる。
ある朝、自分の周りで優し気に微笑み、心通う温かみのある言葉を話していた女たちが、一人残らず、団子のようにくっついた、一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気が付いた。ゾクゾクと戦慄して、鳥肌が立ち、その毒虫に関わらないために駆除する方法は無くて、自分のほうが逃げ出さずにいられない。
毒虫は、情けないくらい貧相でしょんぼりした発語を、恐ろしく元気に、勢いよくまき散らしている。書き言葉にすれば意味を持たない馬鹿馬鹿しい発語なのである。
「どうしたのだろう?」奇異な現象に見えるが、これが白昼に浮き彫りにされた、女のグループのパラノイアを言語活動にすれば、巨大な毒虫になるという真相なのだ。
しかし、この真相を話し言葉で言ってしまえば、なんて無礼なことを云う奴だ。あんなに優しい女の人を傷つけて、マナーがなっていない、許さないぞ、と、パラノイアという女のグループつくりに参加したがる人々の数が膨大に膨らんで、収拾がつかない。
「ああ、なんという骨の折れる人生を自分は選んでしまったのだろう」
なぜ、あんなに大勢の女たちがイメージしているパラノイアの世界では生きられないのだろう。出来てしまったものを、共有していたほうが、自分で創造するより楽だったのに。
そうは言っても、あんなパラノイアをいくら繰り返しても、単調で退屈で、無為で、けっして心から打ち解けあうことのない人付き合いになることは明らかだった。そのための膨大な時間をドブに捨てるなんて、まったくいまいましいことだ。
自分だけの王国にバリケードを築いて閉じこもり、王国の外の人には、ただ、イエスかノーとだけしか返事をしない。王国から追放された女は冷静な分別ある人間であることを話し言葉で伝えることはできない。奇妙な気まぐれを見せつけている。周囲には理解しがたい頑固さを見せつけられては、誰も味方をする気にはなれない。
それに王国を追われた者の地位や身分や職業は安定したものじゃない。
王国を追われるということは、職業を失うことなのだ。
つまり、職業を失わないために、単調で退屈で、無為でありながら、数の勢いが凄まじい女たちがイメージしているパラノイアの世界で生きなければならないのである。
現実の世界では、職業を失わないために、ひとつの偏見が生まれると、より強固にしていく。
職業を失わないために、陰口や偶然やいわれのない苦情の犠牲を防ぐことはできない。
「助けて!どうか助けて!」いくら頼んでもだめだし、聞き入れてもらえない。
ただいよいよ強く足を踏み鳴らして、容赦なく追い立て、野蛮人のようにしっしっと言う。
数の勢いが凄まじい女たちがイメージしているパラノイアの世界で作り出された、あの耐え難い、しっしっという追立ての声さえなかったら、どんなによかったろう!それを聞くと、誰でも、まったく度を失ってしまう。いつでも、この、しっしっという声に気を取られて、おろおろしてしまい、逃げ出してしまう。というのは、恥辱と悲しみのあまり身体がかっと熱くなるのだった。
この恥辱と悲しみのせいで、直接の人間的な話しかけが王国を追われた女には欠けている。
直接の人間的な話しかけを試みれば、必ずや、単調で退屈で、無為な、数の勢いが凄まじい女たちがイメージしているパラノイアの世界で通用する言葉だけを快諾し、発語に専念し、オウムのように繰り返すことを求められるのだ。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/tbs/politics/tbs-1314770
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