県外の方が石川県(特に加賀)について、
歴史的な事で思い浮かぶとすれば・・・

百姓の持ちたる国
であろう。
学校の歴史教科書で出てくるワードであります。
日本史上でも極めて珍しいこの時代は、
長享2年(1488年)に加賀の一向衆徒が加賀国守護の富樫政親を破り、
天正10年(1582年)に織田信長に敗れるまでの約100年間、加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となったのである。
思えば戦国の世に百姓が治める国が存在した事じたい奇跡である。
我が国初の民主国家だったのかも・・・。
これほど歴史的な出来事があった始まりの場所と終わりの場所を訪れてみようと思ったのさ!
それはいずれも城である。
富樫政親が自刃した城、
高尾城である。
この城が焼け落ちて百姓の持ちたる国が始まった。
その場所は、金沢市高尾南にある石川県教育センター近くにある。

あの山頂だ。

さてと

へぇ、石川県教育センターって天体観測施設まであるんだ。

ここを登って行く

ひょえ~

えっほえっほ


竹藪だ。

これはこれで美しい。

おっ頂上が見えてきた。

着いたー

ふむふむ

眺め抜群です!

右手(金沢方面)

中央(野々市方面)

左手(白山方面)

ここは金沢市内でも一番眺望がいいかも・・・。
でもここに来るまでが大変ですけど・・・。
高尾城の建物跡は残念ながら残っておりません。

高尾城の戦い(Biglobeより)
長享2年(1488年)
富樫政親も、野々市の居館から修築成った高尾城に移り、幕府に急使を派遣して支援を要請している。
これを受けて越前国の朝倉氏、能登国の畠山氏、越中国の神保・遊佐・椎名氏らに出陣命令が下されているが、
同年1月には朝倉氏からの援軍を迎えるために発向した富樫方2千の軍勢が加賀・越前国境付近で一揆勢によって殲滅させられたとする記録もあることから、
一揆による加賀国封鎖は迅速かつ厳重なものであったことが窺い知れる。
外部からの支援を絶たれた政親は高尾城に追い込められ、5月下旬頃には20万もの一揆軍によって完全に包囲されるに至った。
戦闘が開始されたのは6月5日で、約1万の軍勢で籠城していた政親方は、活路を切り開くために7日に高尾城から一斉に打って出て戦ったが衆寡敵せず敗れ、9日に高尾城への総攻撃を受けて支えきれず、政親は城に火を放って自刃した。
後で行く一向一揆資料館に掲示されていたマンガ

加賀・高尾城
守護をたおせ!政親を殺せ!
ワー!ワー!

との!これまでにございます。
この政親が農民や坊主どもにやぶれるとは・・・
・・・・むっ無念じゃ
とまあ、こんな感じのことがここであったのです。
それにしても20万の一揆軍とはすごいね。
ここで今から530年前にあった出来事。

さて降りるかね。

滑らないように気を付けて
百姓の持ちたる国の
始まりの場所が高尾城なら、
終わりの場所は・・・・、
鳥越城である。
ということで、白山市鳥越へ

大日川より城を見る。

あの山頂に城がある。

ここも山城です。
さて登ってみるかと登り口に着いてみると

ガーン!

行けない・・・
ということで、前に行った時のを貼り付ける。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ブラオイラ#32(鳥越城跡&二曲城跡編)より一部抜粋です
加賀一向一揆の最後の拠点として知られ、手取川とその支流大日川に挟まれた標高312mの丘陵上を利用して築かれています。
大日川を挟んだ対岸には、同じく国指定史跡の二曲(ふとげ)城跡があります。
落城したのは天正8(1580)年のことで、織田信長の家臣、柴田勝家によって攻め落とされました。
その後、一揆方は再び城を奪回したりしますが、最後には鎮圧され加賀一向一揆は壊滅したとされています。
ふもとから見た鳥越城です。

典型的な山城。
あの頂上付近が本丸があった場所です。

さて車で登ります。

ここからの眺めが素晴らしいです。

(鶴来方面)

(白山方面)
さて、城にいきましょう。

おっ見えてきました。

(枡形門)
かっこいいですね

(本丸門)
建物跡がいろいろと

(礎石)
ここの感じ好き

(空堀)
鶴来方面より最強の織田軍団の軍勢が迫るのが見えたときの百姓兵達の心境やいかに・・・

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
とまあ、
2015.8.2の夏のど真ん中に投稿した記事でした。
城には登れなかったので、一向一揆歴史館へ入ってみた。

よし

まず入館すると20分くらいのビデオを拝見。

これはいい。

わかりやすく出来ており、十分理解できました。
その他展示室へ

ジオラマが好き。
いいねぇ

ウィキより
天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。
その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。
この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつ。
皮肉なもので一向一揆衆徒の立場からすると、高尾城で攻め、勝ち取り、
鳥越城で立てこもり、敗れ落ちた。
ここに天正10年(1582年)に、
加賀に百年続いた百姓の持ちたる国が終わった・・・。
国敗れて山河あり・・・です。

帰宅途上で白山が光っていたのでパシャリ
とした。

美しいねぇ。
あの時の百姓たちもきっと眺めていたんだろうね。
【ヒゲ親父】
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歴史的な事で思い浮かぶとすれば・・・

百姓の持ちたる国
であろう。
学校の歴史教科書で出てくるワードであります。
日本史上でも極めて珍しいこの時代は、
長享2年(1488年)に加賀の一向衆徒が加賀国守護の富樫政親を破り、
天正10年(1582年)に織田信長に敗れるまでの約100年間、加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となったのである。
思えば戦国の世に百姓が治める国が存在した事じたい奇跡である。
我が国初の民主国家だったのかも・・・。
これほど歴史的な出来事があった始まりの場所と終わりの場所を訪れてみようと思ったのさ!
それはいずれも城である。
富樫政親が自刃した城、
高尾城である。
この城が焼け落ちて百姓の持ちたる国が始まった。
その場所は、金沢市高尾南にある石川県教育センター近くにある。

あの山頂だ。


さてと


へぇ、石川県教育センターって天体観測施設まであるんだ。

ここを登って行く


ひょえ~


えっほえっほ



竹藪だ。

これはこれで美しい。

おっ頂上が見えてきた。

着いたー


ふむふむ


眺め抜群です!

右手(金沢方面)

中央(野々市方面)

左手(白山方面)

ここは金沢市内でも一番眺望がいいかも・・・。
でもここに来るまでが大変ですけど・・・。
高尾城の建物跡は残念ながら残っておりません。

高尾城の戦い(Biglobeより)
長享2年(1488年)
富樫政親も、野々市の居館から修築成った高尾城に移り、幕府に急使を派遣して支援を要請している。
これを受けて越前国の朝倉氏、能登国の畠山氏、越中国の神保・遊佐・椎名氏らに出陣命令が下されているが、
同年1月には朝倉氏からの援軍を迎えるために発向した富樫方2千の軍勢が加賀・越前国境付近で一揆勢によって殲滅させられたとする記録もあることから、
一揆による加賀国封鎖は迅速かつ厳重なものであったことが窺い知れる。
外部からの支援を絶たれた政親は高尾城に追い込められ、5月下旬頃には20万もの一揆軍によって完全に包囲されるに至った。
戦闘が開始されたのは6月5日で、約1万の軍勢で籠城していた政親方は、活路を切り開くために7日に高尾城から一斉に打って出て戦ったが衆寡敵せず敗れ、9日に高尾城への総攻撃を受けて支えきれず、政親は城に火を放って自刃した。
後で行く一向一揆資料館に掲示されていたマンガ

加賀・高尾城
守護をたおせ!政親を殺せ!
ワー!ワー!

との!これまでにございます。
この政親が農民や坊主どもにやぶれるとは・・・
・・・・むっ無念じゃ
とまあ、こんな感じのことがここであったのです。
それにしても20万の一揆軍とはすごいね。
ここで今から530年前にあった出来事。

さて降りるかね。

滑らないように気を付けて

百姓の持ちたる国の
始まりの場所が高尾城なら、
終わりの場所は・・・・、
鳥越城である。
ということで、白山市鳥越へ

大日川より城を見る。

あの山頂に城がある。

ここも山城です。
さて登ってみるかと登り口に着いてみると

ガーン!


行けない・・・
ということで、前に行った時のを貼り付ける。
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ブラオイラ#32(鳥越城跡&二曲城跡編)より一部抜粋です

加賀一向一揆の最後の拠点として知られ、手取川とその支流大日川に挟まれた標高312mの丘陵上を利用して築かれています。
大日川を挟んだ対岸には、同じく国指定史跡の二曲(ふとげ)城跡があります。
落城したのは天正8(1580)年のことで、織田信長の家臣、柴田勝家によって攻め落とされました。
その後、一揆方は再び城を奪回したりしますが、最後には鎮圧され加賀一向一揆は壊滅したとされています。
ふもとから見た鳥越城です。

典型的な山城。
あの頂上付近が本丸があった場所です。

さて車で登ります。

ここからの眺めが素晴らしいです。

(鶴来方面)

(白山方面)
さて、城にいきましょう。

おっ見えてきました。


(枡形門)
かっこいいですね

(本丸門)
建物跡がいろいろと


(礎石)
ここの感じ好き

(空堀)
鶴来方面より最強の織田軍団の軍勢が迫るのが見えたときの百姓兵達の心境やいかに・・・


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とまあ、
2015.8.2の夏のど真ん中に投稿した記事でした。
城には登れなかったので、一向一揆歴史館へ入ってみた。

よし


まず入館すると20分くらいのビデオを拝見。

これはいい。

わかりやすく出来ており、十分理解できました。
その他展示室へ

ジオラマが好き。
いいねぇ

ウィキより
天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家軍によって落城し、山内衆の主領鈴木一族は滅ぼされる。
その後この城は織田方の吉原次郎兵衛の管理下に置かれたが、白山麓門徒の抵抗は続き、攻防戦が展開された。
しかし天正10年(1582年)3月1日、織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が磔に処せられた。
この城は、加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで担い続けた、白山麓門徒たちの記録として歴史上の意義をもつ。
皮肉なもので一向一揆衆徒の立場からすると、高尾城で攻め、勝ち取り、
鳥越城で立てこもり、敗れ落ちた。
ここに天正10年(1582年)に、
加賀に百年続いた百姓の持ちたる国が終わった・・・。
国敗れて山河あり・・・です。

帰宅途上で白山が光っていたのでパシャリ


美しいねぇ。
あの時の百姓たちもきっと眺めていたんだろうね。
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