ゆうくんの徒然日記 

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2017年6月 ポーランド旅行 (05) アウシュビッツ強制収容所

2017年10月14日 13時45分03秒 | ポーランド

今回の旅行のメインというか、このためにポーランドに来たようなものです。5日目は、オシフィエンチムへ移動(65㎞)、アウシュビッツ強制収容所とビルケナウ強制収容所を訪問。その後、クラクフに戻り、昼食後、ヴィエリチカへ移動(20㎞)、岩塩鉱山ヴィエリチカ観光。そして、クラクフへ移動(20㎞)、クラクフ泊という移動の多い一日です。 

朝食は、ブッフェ。

品数は、豊富です。味も、今までのホテルと同様、美味しいので、食べすぎてしまいます。

そして、ポーランドに来たかった目的は、これです。アウシュビッツを見ておきたかったからです。ただ、観光気分で見に来れるような場所ではないということは、添乗員さんも、ツアーの最初から言ってました。そんなこともあり、アウシュビッツに行かずに、自由行動の人も9人いました。

電車でやってくる人もいますが、大半は、バスですね。自家用車は、あまりなかったようです。

 

アウシュビッツへの入り口になる建物。この中には、受付やトイレ、売店があります。

 

収容所の中には、トイレがないため、約2時間のツアーになるので、まずは、トイレ。トイレの作りが、男性用は、ひとつの個室に4つ。個室がずらっと並んでいます。

 

売店で売っているガイド。各国の言語に訳されて売っています。

 

受付では、手荷物検査を受けて入場。中に入るためには、A4サイズまでの手荷物のみ。それ以上、大きな荷物は持ち込みできません。理由は、危険物の持ち込みではなく、見学場所が狭いところもあるので、ショルダーバッグ等は、他の人の迷惑になるからということのようです。中では、説明を聞くために、専用のモニター(ガイドさんが話している声をイヤホンで聞く)を使います。使っていないツアーもありましたが、場所柄、大きな声で話すのは好ましくない気がします。

 

有名な入り口。見えずらいですが、「ARBEIT MACHT FREI」と書かれていました。これは「働けば自由になる」という意味です。ユダヤ人は、最初のころは信用していたんでしょうが、全財産を持ってきたそうです。

アウシュビッツでは、ただ一人の日本人ガイドの中谷さんが、私たちのガイドをしてくれました。事前に、中谷さんの名前は知っていましたが、まさか、自分たちのガイドを務めてくれるとは思っていませんでした。英語のガイドでは得られない、その話し方や内容は、重みのあるものでした。ただ、中谷さんは、自分の考えを押し付けるのではなく、あくまでも客観的に、淡々と起きた事実を話してくれ、現在の世界情勢も交えて、移民、難民問題を日本という離れた国でどう考えていくべきなのか、グローバル社会とは何なのか、自分たちが当時の状況に置かれた場合にどんな行動を起こしていただろうか等々を、私たちにまじめに考えてほしいという投げかけをしてくれました。

中谷さんです。

写真は、一部、プライバシー上撮らないでほしいというところ以外は、すべてOKですが、他の観光地とは違い、アウシュビッツを背景に、記念写真というのは、一枚もありません。写真は、どんどん撮って、いろいろな人に見てもらってほしいということも含まれているようです。日本人は、まだ、年間1万にも満たないようです。あと、驚くべきことは、ドイツの若い人が、たくさん来ていることです。ドイツでは、学生時代に、アウシュビッツで起きたことを学び、この場に来て向き合い、二度と起きてはいけないということを改めて、確認するのだそうです。そういう姿勢があるからこそ、EUで一緒にやっていたり、ポーランドとドイツの関係も良好なのかなという気がします。ただ、ポーランド人がドイツ人を嫌わないのは、アウシュビッツで殺された人の大半が、ユダヤ人だったからという話もあるようですが。最後の日に聞きましたが、ワルシャワでのガイドさんの母方のお母さんは、アウシュビッツで、処刑されたといってました。

 

アウシュビッツ収容所の全体像です。

 

監視塔が設置されたり、高圧電線が張り巡らされています。

 

快晴で気持ちのいい日だったので、このように通りを見ると、大学の構内のように見えます。

 

 ユダヤ人の他、ポーランド人、ジプシー、ソ連や他国の戦争犯罪者も犠牲になっています。

 

コルベ神父のことが書かれています。ここに来て初めて知りましたが、コルベ神父は、1930年に長崎に来て、布教活動を行ったことがあるそうで、聖母の騎士修道院を設立した方だそうです。そのコルベ神父は、1939年第2次世界大戦勃発により、逮捕され、その後、いくつかの収容所を経由し、アウシュビッツへ移動収容されました。途中、釈放されたのに、ユダヤ人もクリスチャンも分け隔てなく看護していたり、ナチスへの批判的な本や日刊紙を発行していたため、ナチスに再逮捕されたようです。そして、アウシュビッツでは、無作為に選ばれた餓死刑となる他の囚人の1人を助けるために、自ら身代わりとなったそうです。下記は、コルベ神父に関するWikkpediaのページです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99

強制収容された人のカバン、食器、靴等々。カバンに全財産を入れて持ってきたそうです。

 

収容されていく人がいますが、一番右に映っている人は、上等兵らしいですが、指示をするのみで、手を出さないので、犯罪を問われなかったようです。

 

収容されると、ポケットに貼られたシールで、民族等識別できるようになっていたそうです。また、収容された人の中でも、ピラミッド社会を構成するような仕組みを構築したため、集団化して暴動を起こすようなこともなかったとか。

 

これが、一日の食事。ここに連れてこられると、3日と持たなかったというのも、食事だけ見ても、わかります。

 

 

 形だけの裁判所

 

ここが処刑場です。いまでも、毎朝、花が飾られるということでした。

 

この写真は、ドイツの犯罪を立証することができた貴重な写真の一つだということです。シャワーを浴びるといわれて、外で、洋服を脱いで、シャワー室だと思い込んでいるガス室に走って行く様子だそうです。

 

ガス室の内部です。天窓のように、青い光の入ってくるところから、ガスの入ったボトルが投げ込まれてきたということです。

 

 ここは、ガス室からつながっていますが、いわゆる焼き場です。

当時の写真が多数、展示されていますが、見るに忍びない写真も多いので、上記の写真に加えて、こちらには、他の写真も掲載しております。

2017-06 ポーランド アウシュビッツ

 

アウシュビッツの後、ビルケナウ強制収容所に。こちらは、日本人にとっては、テレビドラマ「白い巨塔」で有名な場所です。

バスを降りて、10分ほど歩くと、入り口に到着。広い農場のようにも見えます。

 

正門の2階に昇ると、全体が見渡せるようになっています。ほとんどの建物が消滅しているため、広場でしかありません。

左のほうが正門で、びっしりと収容所が建っていたようです。

 

線路のところでは、アウシュビッツとは違い、線路から後ろを風景に、みんな写真を撮っていました。ここまで、電車で運ばれてきたということです。

ここで、印象的だったのは、トイレです。

長く伸びたコンクリートに開けられた穴。ここで、用足し。一日2回、一回当たり20秒だそうです。

 

木造の寝室です。板張りのベッドですが、ここに、400人という人が収容されたそうです。ひとつの仕切りのところに、5人×3段ということです。布団は、藁です。

 

アウシュビッツ、ビルケナウともに、雲がほとんどない快晴で気持ちのいい日の訪問になりましたが、もし、極寒の冬、ここに収容されたら、ホントに3日間くらいしか持たないということもわかるような気がします。

日本で、知覧に行ったときの悲しさと比較すると、やはり遠い国での出来事と思ってしまうかもしれませんが、110万人もの人が殺害された事実を無視するわけにはいかないと思います。「アンネの日記」のアンネが亡くなった場所、長崎で宣教活動を行ったコルベ神父が他の人の身代わりに自らなって亡くなった場所といえば、日本人にとっても、身近な場所と感じられるかもしれません。できることならば、もっと多くの人が、アウシュビッツを訪問してほしいと思います。



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