現在の俳句の潮流は実に様々だ。
伝統的な俳句を作る人々、現代俳句を作る人々。それぞれの俳人の持つ内面の詩的世界、詩的感興の発露であれば、当然に表現方法は異なってくるだろう。特に短詩であれば一つの言葉の選択、一文字の助詞が重大な意味を持ってくる。それは伝統俳句だろうが現代俳句だろうが全く同じことだ。
私は私淑している俳人の方、偶然所属している結社の傾向から、自分が納得して「有季定型」の方向を選んでいる。
ではあるが、何よりも先に記したとおり、一つの言葉の面白さ、言葉の選択の重さ、出来上がってくる言葉の世界の目くるめくような煌めきに魅せられており、それが現在自分が作る俳句の方が衝撃的な面白さを秘めていると感じているからである。
若いころはそれなりに詩に夢中になったりもしたが、ある時、三島由紀夫の感性の鋭さに魅せられ、その延長線上で日夏耿之介に夢中にもなった。
今はどうだろうか・・・やはり難しい語彙ばかりであったり私の心を揺さぶられるような言葉のない句は、私の視界には入らない。しかし、その句を作られた作者は詩的感興を揺さぶられたのであろう・・・
数多くの人たちが様々な俳句の世界に浸っている。時として余りにも無神経な句もあるけれど、稚拙(私を含めて)であってもその人なりの感慨を表現しようとしているのは分かる。
しかし、私としては・・・言葉としてあまりにも伝わらない言葉を連ねていると、ああ、自分の世界に没入するだけで十分満足しておられるのかな?と思っているのだが・・・