イスラエルがレバノンに侵攻した。中東の状況は我々湿潤なアジアの片隅に住んでいる人間にはおいそれと理解できる問題ではないと思う。ウクライナとロシアも決して単純に論じられないがこの中東は本当に難しい。
こうした戦を俳句で詠む方も沢山いる。すごいなあと感心してしまう。
私が詠めないのは、どちらの戦争も今の自分に実感できる状況にないからに他ならない。確かに日々感想はある、思うところもあるのでSNSに書く、ユニセフであったり国境なき医師団であったりへの寄付などで意思を表明もできる。だが、それらの戦争を自分のこととして俳句にすることはできない。やはりどこか遠くで見ている句になってしまう。
俳句には制約がいくつかある。様々な立場もあるから絶対的ではないのだろうが制約をなくしていくと難易度は格段に上がると思う。特に制約の一つに季語があるが、音調と共に極めて大きな制約である。
戦争そのものの季語はない・・・ので、花鳥風月・歴史的な行事や祭礼、習俗、季節の情感と異国の戦争との衝撃的な出会いになるほかないのだろう。
まさに、俳句にとって季語は宝物でもあるし、難しい障害物にもなるような気がする。
一寸戦争から離れるが、先日夏井いつきさんのラジオを聴いていて「納豆」と「納豆造る」の季語を知った。特に後者の「納豆造る」の季語は現代にどう使われるのだろうか。何かとの二物衝撃で作句出来るのだろうか。つまり、最低限季語の本意・・・納豆(大徳寺納豆など)を造る状況を理解し対置されねばならず,それは夏でなければならない・・・。
私の様な初心者ではとても無理だが、大歳時記を見ても例句は載っていないので、先人にどれほどの佳句があるかは不明・・・で、今や歳時記に乗せる必要がある季語なのだろうか?この季語をうまく活用できる俳句は作れるのだろうか?