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ラヂオ惑星モルファス

句誌の編集


今年の4月から所属する俳句集団(普通は「結社」と言うらしい。だが、結社というと政治や宗教、思想などに関する強い意志を持って集団思想を形成する団体・・・というようなイメージなので、俳句の集まりなどを、そこまで言うかと感ずるのだが・・・)が発行している隔月刊の句誌の編集作業のお手伝いをすることになった。
様々な俳句誌があるが、どのように編集されているのかは全く分からない。自分たちの俳句誌が「このように」編集されていることも、実はこれまで知らぬままであった。
現在の俳句誌に於いて「主宰」の重さというか主宰がその俳句誌やそこに集う「同人」なる存在をどう扱うのか、他の俳句誌を知らないので何とも言えないのだが、私の所属している俳句誌の状況は、私が想像していたのとは少し違っていた。
ひとつは、主宰の個性や「我」が強くない。勿論俳句への色合いはあるので、私自身への句の評価とは全く異なることは多いのだが、強烈な駄目出しを食らったことはない。
その様な意味を強く言えば、主宰が何をしたいのか見えにくい・・・のが正直なところ。
基本的には有季定型なのだが、これが一番の曲者だろう。というのも、実はこれはかなり幅が広い。
この「有季定型」の枠を制約を取ってしまえば無限に広くなる・・・のだが、リズムや言葉の美しさ(響きや語感、言葉の持つ含みの多様性なども)などどこをとっても(尊敬する山頭火とかも)「自由」であることが「美しさ」を獲得していない。少なくとも、俳句と称するならば、だ。

私は現代詩も大好きだし、日夏耿之介のような詩も好きだ。

詩とは何か、人間の感興を最も多く伝えることができる媒体は言葉であるが、音楽同様のある様式の制約の中で輝きが大きくなる。すべての芸術と同じだ。
一切の制約から解放されたら何が残るのだろう。いや、制約は間違いだ、「手法」と言えば良いか?
一切から解放された自由など存在しない。「俳諧自由」という言葉は欺瞞だろう。
言葉・・・日本語という不自由な制約の中で初めて成立する。どのような制約を設定するのか・・・は自由だが、設定すべき「制約」は常になければならない。
当然ではないか?音楽も、美術も・・・そして詩も、表現の様式があるからこその表現なのかもしれないではないか?

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