【半休中】Beyond talk to oneself

子どもや日常、スポーツ回顧、時事の疑問に世の声の1人として触れていきます。競馬予想はあくまで履歴と仲間向けです。

【重要情報】もんじゃサクライ閉店しました 2~もんじゃの由来と全盛期

2011年11月30日 17時29分40秒 | グルメ
そもそも もんじゃってなんなんだ?
そして駄菓子屋もんじゃってなんなんだ?
知らない人にはそういう疑問があると思う。

私は研究家でも評論家でもなく、やたら調べているわけではないが、
自分が好きなものだから何も知らないことはない。
ある程度知っているものは知っている。
ただその起源や発祥は絶対に明確なこれというものはない。
何故ならば、もんじゃというものは…
下町の貧乏食だからだ!
なのでその生まれた瞬間など解るわけも無い。
「うちからです」と手を挙げてしまえば、そうかもしれないというような
そんな不確かであるのはそういう存在だからだ。

だって考えてみてよ。
初めて見た関西人が「関東のヤツはゲ○を鉄板で焼いて食ってるぞ!!?」
こんなことを言うことも少なくないぐらいの見てくれだぜ!?
要はアレは・・・
お好みが食いたいけど粉が足りずに水増ししたらああなった
そういう代物だとしか思えないわけだよ。これ高確率で正しい見解。
だからお好みにつかう小麦粉にキャベツなんだよ。
で、ソースを塗ろうにもゲル状だから塗れないのでそのまま混ぜた。
見た目は悪くとも食えるものなのは解ってるから食ってみた。
歯ごたえはまるでないけど味はウマいぜぇっっっ!!!
そういうことがきっかけで間違いないと思われるのだよ。
だからこれは戦前戦後の下町の貧乏食なわけだよ。

そう思うと、群馬県民が発祥はこっちだといっているのが居るらしい。
んなわきゃぁない【-●_●)ノ" ←タモさん
発祥はどう考えても浅草だよ。
群馬はそこから伊勢崎線で北上して伝わったんで、
かなりの後発も後発だよ。埼玉の三郷や吉川とか草加とか川口とかも
当然あったので、しかもあんな気持ち悪いもんなんかないし。
亜種も亜種。正直大嫌いなイチゴシロップが入るんだよな。
だからメッカを名乗ってもいいと認めていたのに月島は、
土手作るのが正しい手法だとか、大勢でつつきまくる勝手なルールを作り
正式だと押し付けるのが大嫌いだし(どんぶり取られてぶちまけられた)
それに留まらずに、少なからず浅草から伝わり深川丼の深川に続き
門前仲町の南、埋め立ての月島に、佃島の佃煮モチーフでもなく
しっかりと駄菓子屋もんじゃが伝わって、そこにも間違いなくあったのに
メッカになるためにそれを捨てて新メニュー開発にだけ躍起になり、
独自ルールを基本と誤解させて浸透させるそれは、
月島以外のもんじゃの歴史がある地域に一気に嫌われた。
でもそこまではまだ、コーンや餅や明太など、
さまざまなトッピングのそれは現代の食文化として美味しく
もんじゃの原型とはかけ離れているが、現代の進化したそれだとは
認めることも出来ていた。
だが、何も知らない観光客は、もんじゃを試したいと思えば
誰でもが月島に行く。そこで屋形船もんじゃの企画まではよい。
そんな人たちになんでいちごみるくもんじゃなんて出すかね!?
群馬よりも先に浅草からきちんと伝わっているのに、
その元祖の店3店程度を全て無くしてしまい、
誰一人としてそれを継承したいとするものが居ない。
もんじゃ屋が何十店もあるくせにだ。
そういう伝統を無視して、新しいものだけを見続けるスタンスが嫌い。
月島の連中の辞書にはこの言葉がない。「温故知新」

これが身近に悲劇を生んだのだ。
島根県から出てきて、こっちで知り合った友人はもんじゃが大嫌いだ。
馴染みがないからではなく、何故かというと、
それがその月島の屋形船ツアーに参加して、
いきなりイチゴミルクもんじゃを食わされたらしいのだ!!!
それを一口食って、甘くて不味くて、
東京の人はこんな見てくれも味も悪いものを、美味しいと食っているとは
にわかに信じられない。味覚の回路が違うのか、狂っているとしか思えん!
実際にこう思ったそうで、以降いくつかのもんじゃも出てきたが、
嘔吐してはまずいと、殆ど口にしなかったらしく、
最初からその調子だったので、終了までがあまりに長く、
地獄のツアーになってしまったと、その怒りと不満を
東京人だからと私にぶつけるように言って来たのだよ。
それは東京のものとしてお詫びをするけど、
でも月島以外月島は認められてないよ。というと驚いていた。
私の身近のもんじゃ好きは、あんなところにわざわざ食いに行かないと
言う人ばかりだと話をしたらさらに驚いていた。
結局旅行客を連れて行く店よりも、他の店のほうがよっぽどウマいのは
旅行客と取り込まないと、不味い店だから他にいつも客を取られているので
潰れてしまうからで、ツアー客は犠牲者のようなこともあるし、
実際中華街でも通り沿いは有名店もあって高い店が多いけど、
実はわき道の小さな店のほうが安くてウマかったりするとか、
そういうことって多々あるでしょ?それと一緒だというと納得してた。
なので本物のもんじゃを是非食べさせるので、
それでリセットしてもんじゃのストップ安になった株を、
あげまくってもらいたいと話したのだ。
奇妙なもんが入ったバツゲームみたいなそれは絶対にありえない。

それがありえるのは群馬だけだ。それはそれでいいと思う。
だって自分たちの文化じゃんね。
私は群馬県民じゃないから毛嫌いするけど、
それが基本で食ってきたのなら、それが基本でいいんだよ。
昨日の話じゃないけど、最初に食ったそれがその人の基本だし。
だけどそれはその狭いエリアだけの話であって、
全ての基本じゃないし、他にそれは押し付けないで欲しい。

そして群馬が発祥じゃない絶対的なことだが、
昭和初期がその時代だといわれている。
お好みが食えない貧乏食なのは↑に記したとおり。
なので厳密に下町の駄菓子屋もんじゃも亜種ではある。
当初揚げ玉も切りイカも入ってなかった。粉と水とキャベツとソース。
でもソースって昭和初期にあったのかね?にわかに疑問だ。
私個人的には、戦後の貧しい下町のある家で生まれたものだと思っている。
終戦は昭和20年だ。それ以降ではないか?
ちなみにネタバレはしたくないのだが、使用ソースはユニオンだ。
あの会社は昭和24年創業。なのでそれ以降なのかも??
そうだとすると非常につじつまが合う。
肝心な群馬は発祥じゃない決定打だが、
そういうわけで貧乏の典型な食い物だったわけで、
そんなものに「イチゴシロップ」なんて高価なものが入るのかね!!!?
砂糖だって高価な代物の時代だぞ!?それに色つけたシロップなんて
簡単に買えるようなもんじゃない。
カキ氷は昔は「スイ」だ。砂糖水だよ。それに色つけるなんて出来ない。
紅しょうがの汁なんて入れたらしょっぱくなっちゃうぜ!?
ということは確実に色をつけられ売られているもの。
その老舗はハニーだが、あの会社の創業は昭和30年だぜ!?
なのでそこからしても群馬は完璧に後発。
元祖だと思いたい気持ちはなんとなく解るけど、
完璧に違うんで、思い込みや夢は見ないように。
他のだってカレー粉でしょ?特徴的なものが新しいよ。
切りイカなんて昔からあるし、青海苔も揚げ玉も。
だから発祥はまず間違いなく浅草だといえると思う。

ということから、浅草から始まってすぐ伝わっていた月島が、
相当後に伝わった群馬のそれを模倣して提供していること自体に、
お前らには下町文化のプライドが無いのか!?
もはやメッカだなんて認めん!!!2度と行くもんか!!!
そう思ってもう何十年も行ってない。
やはり下町ならではの個別焼きの小さい焼き方を間違いだと言って
いきなり丼取り上げられ(素人に素人だと思われたらしい)
全部ぶちまけられて、最後の楽しみのせんべいも作れなかったし、
そのイラッとしてやったさまがどっちが金払うのか解らないほどの
乱暴で横暴な態度だったし、新作的なトッピングで美味しいものもあるので
それはそういうものを楽しみたい気持ちでわざわざ食べに行っているのに、
もはや行く気はうせていた状態で、そんな侮蔑にしか値しない
方向を向かれてあたかも正しいと展開された日には、
勝手にやってろ!でもそれは月島オリジナルで基本じゃないと言え!と
強く思うようになって数十年なのだよ。

そんなことで、冒頭画像はフジテレビの百識のものだが、
もんじゃも紹介されたときのものをキャプチャしてあったので貼った。
これにもあるように、現代のもんじゃのスタートは駄菓子屋、
でも月島からだとはどこにも書かれていない。それは浅草からだから。
子どもたちが文字を書いて楽しんだともある。
これだけでは説明は不十分なので、これも解説する。

元々どこかの貧乏な下町でたまたまうまれたもんじゃ。
おそらく当時は水お好みとか、ゆるお好みみたいな
そういう名称でたまたまやった人は話したのだと思う。
見た目は悪くてぐにゅぐにゅだが食べるとウマいと。
それを真似する人がいわゆる口コミで広がっていき、
そのうち広く知れ渡ることとなる。

そして子どものおやつとしてそこまで貧乏じゃない人も作り出す。
小麦粉を使うのが少なく済むので好都合だったと思う。
そんなおやつとしての広がりが多分その間にはあったのだと思う。
そして駄菓子屋に子どもらが集まる。
でも与えられた小遣いは限りがあるし、
いつの時代も同じその成長期の子どものお腹を満たす菓子などなかった。
あったにしても、持ち合わせでそこまでは得られなかった。
多分誰かがこういったのだと思う。
「あ~あぁ~~。腹減った。水焼き(もんじゃ)でも食いたいなぁ」と。
そこでその駄菓子屋の店主は思った。
確かにうちの子にもおやつで作るけど、あれって原価は安いし、
この子達の持ってるお金でも提供できるのではないかと。
菓子では得られなかった満腹感をそれならあたえられるのでは?と。
そこで「おばさんちで10円で水焼き食べられたら食べるかい?」と聞く。
こどもらは勿論だとかの好反応したのだと思う。
だからこそどこかで鉄板を仕入れて、これが始まったのだと推測する。

当初何十銭だったのかはわからないが、
デノミ後の5円や10円で始まったのだろうと思う。
もんじゃの語源は文字焼きと水焼きの2つ。
それがなまったものがもんじゃだとされているが、
思うに当初水っぽいお好み焼きだったのだと思う。
それが略されて水焼きになったのだと思う。
その水焼きは、駄菓子屋で提供されるようになり、
画像にもあるように、食べに来た子どもらが、
その緩さゆえに文字を書いて遊び、
「次は【あ】を食べる」とか「【ひ】を食べる」とかやってたのでは?と。
そこから文字にして焼いて食べるのが流行って
(「か」をどうつなげるとか「ぬ」が綺麗に書けないとか
そういうことでウマく出来るかどうかと競ったりしたのではないかと)
そして文字を書いて焼いて食べることで、それは水焼きというよりも
文字焼きだなということになり、昔だから文字は「もじ」と読むのではなく
「もんじ」だったのだろうと思う。
だって木枯らし紋次郎だぜ!?(文字郎じゃないって)
まぁそこは東北弁が「まず」を「まんず」というように、
もじはもんじだったのだよきっと。
だから「もんじ焼き」なので「もんじゃ焼き」になったんど思う。
これは確証のない、真実に基づいた私の推測だが、
結構正解ではないかと信じて疑ってない。

そんなことで、下町の生活の知恵ともいえない、
たまたま生まれてしまった貧乏食のもんじゃは、
時代背景というニーズにマッチして、
金持ちの山の手には無縁の貧乏な下町に根付いてゆく。
それは発生は偶然だが、必然だったと思う。

そして貧乏を引きずりながらも少しセレブに進化する。
それは水と粉とキャベツとソースから、
削り節の粉と、青海苔と揚げ玉と切りイカが入った。
イカは贅沢な気がするかもしれないがそうではない。
よくよく思い出していただきたい。
信玄イカやよっちゃんいかのようにイカも駄菓子の定番。
今だってかなり安くて家計に優しい重宝する美味しい食材だが、
それは昔だってそういう存在だったはず。
しかも生イカではなく、加工され乾燥した切りいかだからもっと安い。
さらには山形の玉こんにゃくには出し汁にイカは欠かせないのだが、
そのように味にコクを出すとかうまみを出すのにもうってつけだ。

これで戦後の復興後の第2次駄菓子屋もんじゃの原型は整った。
1杯20円や30円で切りイカまで入ったもんじゃが味も良く
人気となりスタンダードになったのだと推測する。
東京大空襲もあったりして、焼け野原になった後だから、
多分10年はこれが出来るまではかかったと思う。
10年で昭和30年だ。
ということは、最低でも現代の駄菓子屋もんじゃは
昭和30年代以降に始まったのだと言い切ってもいいと思う。

昭和40年代、1970年代だ、駄菓子自体もメーカーも増え、
腹空かしの子どもらの欲望を満たす存在で、
大して儲からないが、毎月のタバコ代程度は稼げた駄菓子屋を
多くのリタイヤした戸建ての家や旦那が勤め人の熟年の主婦が
やるようになって、駄菓子屋もんじゃもその中で2割程度はやっていた。
これのアンテナ的な情報源となっていたのは何なのか?
伊勢崎線沿いに伝わっていったのは、
その沿線の人が食べに来て覚えて地元でやっただけではない。
そこに卸す業者が居る。飲料業者だ。

当時だとファンタは高く、駄菓子屋で同等のジュースといえば
ミリンダもあるが多くはチェリオだ。
そのチェリオやラムネを駄菓子屋に卸す業者が、
もんじゃの台を置いている店は大盛況で儲かっていると話をし、
そのレシピや台のこと、タネの作り方や焼き方などの話をして、
裾野を広げて行ったのだ。
駄菓子屋も単価があまりにも安く、万引きも多い店で、
どうやっても万引きされず、人が多く来る起爆剤のもんじゃに
魅せられて始めるところが続々と出たのだった。

その過渡期というか、黎明期は私らの時代だ。
私の小学生としての行動範囲には駄菓子屋は15軒ぐらいあった。
そのうち4軒ぐらいはもんじゃをやっていたのだ。
そのなかで私がホームにしていたのがここだ。



これは比較的最近の画像。どこかはあえて言わない。
自分が居るのは神社で、だから私が名づけたのは「じんじゃもんじゃ」だ。
銘木なんじゃもんじゃみたいなニュアンスだな。
でもこれが深く浸透して、今でもそれで通じるのだ。
ただこれがもうやってない。
電柱の右側はただの銭湯なのだがそれも今は閉店してしまっているのだ。
やっているのは画像に写ってない右端のコインランドリー部分だけ。
そことはただの隣だけで、全く無関係だった電柱の左の駄菓子屋は、
今は同じ人の子どもが居るのか、別の他人が住んでいるのか、
まったく世代が違う人が居た。もちろん駄菓子なんて売ってない一般宅。

たまたまこれを撮ったときに、ここの家の子どもが
おばあちゃんの家に行きたいと駄々をこねだして、
母親が行くとお菓子ばっかり食べるから食べすぎなのでダメだというような
そんなことで止められているのでさらに駄々をこねるのが展開されていた。
そう思うとその母親は1年生ぐらいの男の子の母だけに、
どう見ても20~30代で間違っても60代でも70代でもない。
ましてもんじゃやのおばさんは、当時50代だと思うので、
いまだと30年は経つので80代以上になっている。
それがそのおばあちゃんがここに居なくて、おばあちゃんのところに
行くのだとは、確実にここの家にはもんじゃ屋のおばさんがいない証。
しかも1年生の子のおばあちゃんは多分40~50代で、
80代となるとひいおばあちゃんだと思う。
それがおばあちゃんが居なくて居るというのも考え難いので、
そこからしてもんじゃ屋とは無縁の人が今は住んでいるのだと思った。
だから駄菓子屋のことなどの昔のことを聞こうとも思わなかった。
それはとても悲しかったが、今始まったわけではない。
とっくのとうにこうなっていたのだ。だから。

ちなみに画像の入口の左に小窓があるが、
そのスペースの幅で畳1畳ぐらいのところがあって、
そこに座卓のもんじゃ台が1つ置かれていた。
そして植物など並ぶ右側一面は玄関の部分と繋がって
前面ガラスの横開きの扉で、中には人が2名程度立てるスペースで
その向こうにスマートボールの台ぐらいのガラスケースが
縦に2つ横に4つの8つぐらいが並び、そのガラスの中に
いろんな駄菓子が並んでいたのだった。
そしてその一番右端の人が立つ部分の場所にテーブルのもんじゃ台があり
ここは2つ置いてある店だったのだ。
ここも大通りではなく、狭い地元の人しか通らないような道沿いにある。
そんな地域密着というよりも、地域だけが対象の商売が
この駄菓子屋であり、駄菓子屋もんじゃなのだ。
(だから遠方の一見が荒らしに来る場所じゃないんだよ。
そっちはそっちで駄菓子屋あるだろうし、もんじゃの有無はそっちの問題)

ここが最初は駄菓子を買いにいっていた。
当然もんじゃはおいしそうだし食べたい。
でもうちは父母がもんじゃが好きではないので食べに行ったことは無い。
友達は多かれ少なかれお好み焼き屋に行って食べていた。
でもここに来れば、親とは無関係に食えるのだ。
私の時代はもんじゃは50円になっていた。(すぐに100円に)
でも小学生には正直怖い。
なにせ大きいお兄さんたちばかりが食ってた。制服で。
制服がこれを食える一つの鍵なんだと思った。
それがないとダメではないが、制服を着ているとその権利があると。
着ていないのはおこちゃまなのでまだ早いといわれている気がした。
実際中学生が怖くて、食っててもし後から来られたら、
「ガキが生意気なんだよ!!」とぶっ飛ばされるんじゃないかと
思うぐらいに戦々恐々と見ていて食える日が来ることを待ち焦がれた。
しかもここは厳密には隣の学校の学区内。
小学校も中学校も、街の名称はうちと同じなのに、
その○丁目が違うだけでそんなにも違うアウェーなのだ。
だからこそ憧れた駄菓子屋のもんじゃ。
臭いが良く育ち盛りが食ってるのでガツガツ行ってる分、
余計にそれはウマく見えたし、貧乏食なのに高嶺の花だった。

あるときチャンスが巡ってきた。
それは開校記念日だ。
これはたまたま休日と被るときもあるが、この時は平日。
5年生でのことだった。
親しい友達に私は言っていた。
明日は開校記念日だし、早い時間なら絶対誰も居ないから行こうと。
親は買い食いは基本的に禁止していたし、
もんじゃを食うこともまだ早いとして許可が出ないので、
互いが互いの家でお昼をご馳走になるという話で向かった。
付いたのは11:45ごろだったろうか?
おばさんは「あんたたち学校は!?」というので説明。
そして「ねぇ、もんじゃって中学生以上の人じゃないと
食べちゃいけないの?」と私が聞いた。
すると「そんなことないよ。あんたたちが食べたっていいんだよ?
食べたいの?」と聞くので、食べたいとずっと思ってたという思いが
堰を切ってあふれ出て、いつも怖いと我慢していたとか話した。
それはそれは悪かったねぇといって、今出してあげるから座りなさいと
初めて案内されたのだった。

そのとき食ったもんじゃがウマくないわけなかろうかこのバカチンが!
(何故か金八に)
その味がこの味、典型的な駄菓子屋もんじゃの味だったのだ。
「これがもんじゃか!思った以上にウマい!!!!」
ここからもんじゃのウマさにハマっていたのに何の説明も要らない。

ただ一つ私のこの地域と、サクライとは大きく違うことがある。
うちらは高校生になったらもう行かないのだ。
ここは小遣いしかもらえない中学生以下のものであって、
バイトして稼げる高校生は高い普通のもんじゃ屋に行くことが
暗黙のルールで決まっていたのだ。
だから高校生以上は誰一人見たことがない。もちろん中年も老人も。
元々利用しない大人は無視しても、自分らがどんな思いで待って
それにありついてきたかはみんなわかってるのだ。
それを自分らがいつまでも張り付いてて裾野が広がれば、
それはそれ以上の待ち時間や行列になってしまうのがわかるからだ。
でもサクライには老若男女が来ていた。私には違和感満点。

そこが違うのだが、それも時代が違うからでもある。
私の時代はまだ子どもがそれなりに多かった。
うちのマンションなどは大規模マンションなので、
それが出来たことで学校が分校が出来たほどだった。
6クラスの既設の学校は、1クラスが50人を超えるとして、
3クラスの分校が出来たのだ。
確かにうちのマンションだけでも同級生が10人ぐらい居た。
なのでマンションの建設が決まった段階で学校も分校計画が進んだ。
それでも既設と新設の合わせた9クラスが45人平均だったのだから
それなりに多かったのだ。でも今は凄く少ない。
まして買い食いやお金を持って遊ぶことは校則として禁止。
私らの時代もいいとはされてないが今ほど煩くもない。
今は誰かが見てチクるのでややこしい。
仮に駄菓子なら購入現場を見られない限り誤魔化しも出来るが、
もんじゃは食いだしたら数分というわけにいかないので、
放課後に行くことは極めて少なくなっているのだ。
いちおうサクライも道楽とは言いつつ商売なので、
何とか黒字にはしないといけないから、
子どもらが来ないなら大人。そこも歓迎なのだった。
(だから一見の大人が来ても入れるのだよな。
私の地域のほうだったら多分「これは子どもの食べ物よ」と
おばさんにいい年した大人だったら、高いお金払って
普通のお店で食べなさいといわれていたはず)
でもサクライのそれは、自分が大人なのに入れるというか
受け入れられるので入れる嬉しさの反面、
大人がやたら目立ち、順番で子どもが待ってたりすると、
大人なのに子どもを待たせてしまっている罪悪感が凄かった…。
なので一番最初にサクライに入ったときは、
そういう店で大丈夫だと聞いていても、娘が一緒に居たとしても
始めてきた緊張だからではなく、大人が入ってはいけない
子どもだけの楽園を土足でズケズケ荒らしてしまう無粋な大人の気がして
凄まじく気が引けたのを覚えている。
でもそれを押し殺してでも、あのときのあの味を25年ぶりに食いたいと
思った欲望がどうにか歩を進めさせ、店内に自分自身を押し込んだのだ。

サクライの話は明日にして、もともとの地元の話だが、
画像の店以外も50代(と思える)おばさんがやってた。
一番新しいのは、1年ぐらいした建売の家の住人が始めたのだが、
小さい子どもを抱えた30代の若い主婦だった。
そこは誰にどう聞いたのか、自宅で出来る副業としてやりだした。
商売もしてないただの建売の民家だから、誰かが商売しているのか、
例えば旦那が飲料卸で自宅で勧めたのか解らないが、
ただの家なのに突然始まったそれは驚いた。
でも30代が一番若いので一番長くやったかというと違う。
一番最初にやめたのがこの店だ。
何でかというと、そう甘くはないんだよ。
子ども相手だから可愛いけど煩いし、話しても通じないとか、
何というか自制できないというかね。
この店は小さい子が居たせいか、小学生のメッカだった。
小学生の癖にこんなにニコニコともんじゃ食って、
俺様の苦悩をお前らも感じて乗り越えて来いよ!と思った。
さらにその苦労も駄菓子屋もんじゃの雰囲気も知らずに、
自分ら小学生で勝手に作り上げてしまったそこ独特の空気は
中学生を全く寄せ付けなかった。
何度となく私が気になって店の前まで行くが、
必ず小学生が食ってて(中学生より終わるの早いし)
小学生独特の自分のものを守るための敵対心がそこにはあって、
結構それって年齢的なものだから誰にでもあるえげつないものなのだが
「おじさんがこっちみてる~子どもの店なのに~」と
中学生を捕まえておじさん呼ばわりもされたこともあったし、
それを受けても店主は何も言わないし、
あなたも食べにきてくれたの?少し待てる?とかでも言われたら
気分良く待って食ったのに、店に入ろうとしないでそばに居るだけでは
全く客として扱わないどころか、呼び込もうとする営業努力すらなかった。
そこからしてこの若いおばさんは、この小学生だけが客で、
中学生以上お断りなんだと思ったので、駄菓子1つすら買ったことがない。
もしかしたら2歳ぐらいの子はここのうちの下の子で、
よくいる女の子がここの家の上の子だったのかもしれない。
もしそうだったら、商売なのに他人優先ではなく
金にならない身内優先なんてそりゃ誰に聞いても大間違いだがね。
そんな了見の狭い商売をしていたので早く潰れたのだ。
最初が肝心で、いろんな客にウエルカムして常連化できなかったそれは、
月日がたっても来てもらえるわけがなく、特定の客以上増えず、
頭打ちになるなんて結構なおばかでもわかる話だ。
なのでずぶの素人というかただの専業主婦が、
何の戦略も商売としてのコンセプトやスタンスがなく、
ただ道具と環境だけ整えてやってもうまくいくわけないのだ。
それが所詮駄菓子屋だが甘かったと言い切れること。

こんなことも過渡期にはあったのだが、50代のおばさんたちは
すぐに60代になり、あっちが悪いこっちが悪いとやめていく。
或いはもう死んでる。21世紀にはとっくにもうどこもやってなかった。

あるとき高校生だったのだが、帰り道にわざわざここの前を通った。
わざわざ通らないと居らない道だからだ。今どうなっているのかと。
そのころは一昨年まで食ってたのでまだ当然やってたが、
おばさんに話すと「あんたたちまた食べに来ない?」といわれた。
なのでダメだよこれは中学生以下の特権だもんと断った。
すると駄菓子屋でもんじゃ食ってるのは不良だとして
学校に禁止されたらしくて、一気に減っちゃったのよと嘆いていた。
確かにもんじゃ食えるのは勇気がないと食えない。
↑で書いたように、怖い感じのお兄さんたちが食ってたのだ。
その間に入って食うのだよ。それは根性無いと出来ないべよ。
だから優等生やおとなしい子は興味があっても行動に移せないのだ。
(なので切望してたが怖がる優等生2名を連れてってやったこともある)
当時はクールスやキャロルもかっこいいとし、
もうE矢沢はソロだったのにそういう時代で、
すぐに横浜銀蠅も流行った頃なので、パンチやリーゼントがごろごろと…。
それは見てくれは不良がたむろしているようにしか見えないわな。

そんな方向になってきて、うちらも結構中学生の3年間は
ベテランとしてのさばっていたが、中心的な客だと認められてて、
おばさんにも「あんたたち、ちょっといつもと違うの使ってるんだけど
食べてみて感想言ってくれる?今日のは半額でいいから」と
そんなことも頼まれたりしていたのだ。
そんな存在だから泣きつかれたのだが、
実はそれだけでもなかった。
コンビニの登場だ。
商店街や小売店を潰した元凶だが、ここにも余波はあった。
なんにしてももんじゃは真夏は食わない。寒い時期が基本。
寒い時期コンビニには何がある?おでんと肉マンだ。
どっちも待たずにすぐ食える。
もんじゃはたまたま開いてないとすぐ食えない。
腹が減って死にそうな若い世代には時間は重要だった。
今食いたいすぐ食いたい。それがコンビニにはあった。
それも時とともにどんどん増えて、その名の通りコンビニエンスに。
もんじゃも2杯で200円とか食うようになり、
それなら肉まん2個でも、焼きそば弁当200円でも変わらなくなったのだ。

私は当初は腹を満たすことが主だったもんじゃの
その味が優れていることを高校2年にはもう気が付いていた。
だってどこのもんじゃ屋に行ってもあの駄菓子屋もんじゃの味がないのだ。
でもあそこは中学生以下のものだから行ってはいけないんだと
自分がひたすら待ったことを思い出して抑えていた。
それも駄菓子屋もんじゃの衰退に拍車をかけてしまった。
もっと話す機会が多いとか、前を通ることが多かったら、
仲間に声かけていくらでも行ったのだ。だって食いたかったのだし。
でもそれはふと気が付いたときには、もう廃業していたのだった。

味が違うのはソースが特殊だからなこととラメックが大きい。
細かくは揚げ玉もただのてんかすではダメで海老などが入った
わざわざ揚げ玉にしたものでないとダメだし、
意外と細かい部分もあるが、ソースとラメックは絶対。
そのラメックって何?!というのは長いので明日説明する。

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