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坊主兼主婦の雑日記です。

多気町相可を歩いて来ました♪(前編)

2012-07-18 16:02:10 | 雑賀の奥の細道日記
どもども
雑賀です~
 
今日もがっつり暑いですね~
 
そんな中、私はとある町を歩いて参りました
 
多気郡多気町相可。
 
まぁ、地元ですね
 
色々と古い建物が多く、
歴史ある町なんだという事は分かっていたんですが、
なかなか重い腰を上げる事が出来ず・・・
 
ですが、そんなある日、
「鹿水亭」を解体している姿を目撃してしまったんです
 
古い町が大好きな私・・・
 
その町の貴重な建物が壊されるなんて・・・
 
・・・という事で、急遽カメラを抱え、
私、独り撮影ウォーキングに出掛けた次第です(←この暑い中・・・
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「鹿水亭」というのは、かつては「車屋」という旅籠でした。
昔々、この相可が伊勢本街道・熊野街道が交わる交通の要所として栄えた頃、
とってもとっても繁盛した旅籠です。
 
ちなみに、伊勢本街道とは、「伊勢参宮街道」の事です。
伊勢神宮へ参拝する人達の為に整備され、
大阪~伊勢へと繋がる街道となっています。
相可のような宿場町が出来、栄えたくらいですから、
当時、ディズニーランドも真っ青なくらい賑わっていたんでしょうね~
 
ですが、次第に参宮客も減り、松阪にあった「湊屋」という旅籠に吸収合併。
そして、「鹿水亭」という名前で再スタートを切る事となります。
 
ですが、そんな旅館業も休止。
その後は鮎の甘露煮を製造・販売していたそうなんですが、
2010年に二代目のご主人が亡くなられ、それも廃業。
今は、ひっそりと建物が残っているだけです。
そんな歴史ある建物が取り壊されてしまうのは、とっても寂しい・・・
 
という事で、その「鹿水亭」を見物がてら、
伊勢本街道を辿ってみる事にしました~

イメージ 2
実は、今日、その「鹿水亭」の辺りをウロウロしていたら、
建物を解体している業者の方に声を掛けて頂き、
色々と、この辺りの歴史について教えて頂きました
古い家屋を解体する傍ら、
その由緒や歴史なども調査されているようで、
とっても勉強になりました~
ありがとうございます
 
ちなみに、この歯医者さんの辺りには遊郭があったんだそうです。
(詳しい場所は不明・・・)
当時は、この辺りは宿場町の外れだったらしいですが、
こういう栄える所には、必ずこういう場所も出来るモンです(苦笑)
それを、改めて思い知らされました
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そのまま行くと、浄土寺という、大きな天台真盛宗のお寺があります。
相可には、豪商が沢山住んでいた為、こういったお寺が多いです。
それに、栄えた宿場町の中にあったという事で、
学者や著名な方も多く尋ねられたのでしょう。
こちらには、町指定文化財が沢山保管されていると、
境内にある立て看板に書いてありました。
イメージ 4
お寺を過ぎると、ポツンと小さな祠が・・・。
 「伊勢本街道(下)」の本を確認してみると、
この祠には、子供の百日咳に御利益があるという乳母神様が祀ってあるらしいです。
かつて、倭姫命がこの地を通り掛かった時、物凄く百日咳が流行っていたんだそうな。
それを見て可哀想に思った倭姫命は、櫛田川の鉾ヶ淵に身を浸し、
「この川水で体を洗えば、必ず咳も治るだろう」
・・・と言い残して、去って行ったんだそうな。
で、実際にやってみたら、本当に病気が治ったんだそうな!
人々は倭姫命に感謝し、ここに乳母神を祀ったんだそうです
地元では「おんばさん」と呼ばれているそうで・・・(←知らなかった・・・
何とも、感動的なお話じゃございませんか!
 
そんな「おんばさん」の祠を過ぎると・・・
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「鹿水亭」があります。
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裏の蔵が崩れて来たという事で、
その部分だけを取り壊している・・・という事でした。
勿体無いですが、昔の建物を維持するのは、
今の時代では、それはそれは難しい事なんだそうで・・・
なので、やむを得ず取り壊すんだそうです。
 
ちなみに、お写真に写ってる方が、今回色々お話を聞かせてくれた方です
この町の事を色々調べていらっしゃって、
ホントに色々お話を聞かせて頂きました
 
帰ってからネットで調べてみたんですが、
やはり調べ物をするなら書物を読むのが一番ですね~
多気町図書館へ行って、早速郷土史の本を借りて来ました
これから、ぼちぼち調べて行きたいと思います~
 
さて、そんな「鹿水亭」を後にし・・・
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古い建物を辿って、ひたすら西を目指して歩きます・・・
イメージ 8
この辺りは、大きな蔵がとっても良く目立ちます。
それくらい、豪商が多く住んでいた・・・という事なんでしょうね。
ちなみに、こちらの建物(奥)は「相可坊」と言って、
金剛座寺というお寺が所有するまちかど博物館になっています。
もちろん、手前の蔵の中もギャラリーになっていて、
色々展示されているようですが、生憎休館日
またいつか観に来たいです~
 
聞いた話では、この辺り一帯は「大和屋」と呼ばれる大きな家があったようです。
「大和屋」というのは、奈良県から移り住んで来た西村家の屋号なんですが、
呉服商、紙問屋、また為替方と呼ばれる金融業を営み、
幕府や紀州藩などにお金を貸したりして、
それはそれは大金持ちだったようです。
でも、生活が派手だった訳でもなく、とっても質素倹約な方達で、
貸した金の利息をお米で受け取り、それを備蓄し、
おかげ参りに来た方達に振舞っていたりしたんだそうです。
 そうやってお米を蓄えていったお陰で、
天保の飢饉も乗り切ったんだそうな・・・
 
こんな素晴らしい豪商が、この相可にはいらっしゃったんですね
素晴らしい~
 
・・・ですが、幕末になると、金を貸した藩が財政難に陥り、
貸した金も返って来ない有様・・・
 
金が無ければ、何も出来ず・・・
 
その為、この西村家は衰退し、倒産。
 華やかな歴史にピリオドが打たれたのでした・・・
 
現在、その屋敷の跡には、
イメージ 9
11代目当主廣休が植えたフウ樹だけが、ポツンと残されています。
かつては2千種近い薬草を自宅庭に植え、栽培していたという廣休・・・
 
こんなふうになる事を予想していたのでしょうかねぇ・・・
 
悲しき事です。
 
 
 
 
後編に続きます・・・