信仰日記

主に教会行事案内や出来事を記録していきます。

気づき信仰体験発表(2)

2017-07-20 | 日記
№2


 その後、父も講習を受け、「これが本当の信仰。この道がなければ、我が家は生きてはいかれない!」と云うことで、毎月一日を月参りの日と決め、20年間続けたそうです。
 その間、沢山のおかげをいただき、父は78才、母は93才で亡くなりました。

 貧乏でも、一緒に暮らし、親の苦労を見て育ってきたおかげで、誰に言われるでもなく、兄は、親の時代の生活を、鉛筆で絵日記風に書いていました。年祭の時は、その絵日記をこども達に見せながら説明したりしています。 家系図もノートに書いています。
 実家は豆腐屋をしています。妹は、元気な頃の親に取材して、豆腐屋の一代記を紙芝居にして、やはり年祭の時に、皆にみせています。そのおかげで、小さい子ばかりでなく、当時の事を知らない人もいるので、真剣に見てくれます。 
 母の2年蔡には、「又お願いね!」という、嬉しいリクエストもありました。 弟は鳥栖に住んでいるので、毎月祖霊殿にお参りに行ってるようです。

 父の15年祭を2年前にしました。父はお酒が好きで、くだをまいたり、あまり良いお酒の飲み方では無かったと思いますが、家族が揃う場が好きでした。 養子という気持ちの反動なのか、大きな決断をする時には、父の存在感がありました。
 その年祭の時は、殆どの家族が揃い、32人の出席となりました。
 
 せっかくみんなが揃う機会なので、年祭の祈りの後、ふれあいの間で、父母の思い出を、4人の子供が話し、その後豆腐屋の紙芝居をしました。 
 昔の事を知らない姪が、「ばあちゃんの入信は、お父さんが死ぬかも知れない状態の時だったんやねえ、初めて知ったよ!」と言ってたそうです。一緒に住んでいても、話を聞くことは無かったようですが、命の流れを実感する年祭になったと思いました。

今年4月には、母の2年祭がありました。2年前には来てくれた伯父は、この3月に83才で亡くなりました。もう会えないのは寂しいですが、年祭の時に、こども達、そのつれあい、孫達まで来てくれます。忙しい時も、皆時間を合わせて来てくれるのが、本当に嬉しいです。

 商売で、いつも忙しい妹達と、たまには温泉でも誘ってゆっくりしたいと思いますが、なかなかそれが出来ません。 そこで、母の2年祭で、若い子も楽しめるように、ビンゴゲームをしました
。 前回は、思い出話をしましたが、お嫁さんや若い人の思いを考え、日常の忙しさを忘れる、楽し事を考えました。 式典の後は、池田先生のお話で、心の洗濯をし、記念写真を撮りました。
 そして場所を食堂に移し、兄の掛け声で、食前の祈りをして、昼食を頂きました。
 食前の祈りを知らない人もいるので、ちょっとした、神園作りをした気分になれました。
 その後はビンゴゲームをしたり、時間を忘れて楽しく過ごしました。

 限られた時間でも、皆で知恵を絞り、工夫して準備すれば、楽しめるものだと思いました。

 3年後は、父の20年祭と母の5年祭が重なります。 その時は、大きな区切りになると思いますので、若い孫達を中心に、盛大に、楽しい年祭を考えようと思います。


気づき信仰体験発表(1)

2017-07-20 | 日記
教会講習の時にご発表頂いた内容を、少し長いとは思いますが、掲載させて頂きます。
長いので、何回かに分けて書きます。

№1

■ 御神尊様、今日は信仰体験の発表の場を頂きました。 祖父母の事や、私の知らない時代の事、入信のきっかけ、道に導いて下さった方の事など、命をみつめる機会をいただきありがとうございます。

 私は、大正11年生まれの父と、大正10年生まれの母との間に、2男2女の長女として生まれました。
 母は、婚約者がいましたが、シンガポールの激戦で戦死したということでした。その後縁あって婚約者の弟と結婚することになりました。当時は、こういうことがあったそうです。 戦後身ひとつで引き上げてくる人もいれば、紙切れ一枚の知らせや骨壷で、帰って来た人もいたと聞きます。 二人とも、悲惨な時代に青春時代を過ごしています。

 母の父親は、昭和12年に50才で亡くなりました。母が15の時です。 その頃頼りになる兄は病弱、姉達は嫁いでおり、一番下の弟は、未だ3才。母親も祖母もおり「 お前が男だったらなあ~」と親に言われていたそうです。
 父の復員を待ち、26才で結婚、父は養子です。

 当時の母は、親に合わせれば夫に合わず、夫に合わせれば、親に合わずの板挟みで、心労が絶えなかったそうです。そのためか、リューマチから心臓弁膜症をおこし、痛みや苦しみで長患いし、寝たり起きたりをくり返していたようです。

 善隣の道に導いてくれた方は、近くに住む父の知り合いでした。その方は肝臓が悪くむくみがひどかったのが、教えを聞いてからは、どんどん良くなったそうです。
 子供が3人いましたが、一人が良くなれば、又ひとりが悪くなり、医者から縁が切れなかったそうです。佐賀の講習に行くと、「このままの状態でいると、子供を取られますよ!」と言われ、初め半信半疑だったそうです。 それから10日位に7才の長男が高熱でリンパが腫れ、命に関わると医者に言われ、迷わず又講習を受けたそうです。

 当時の事が書いてある母の手紙に「主人と和解することを、心が開き入れてくれません。自分自身に言い聞かせて、ようやく心が落ち着き、胸のつかえが取れる頃には、こどもの目に赤みが戻ってきました!」当時の兄の目玉は、死んだ魚のように、白く濁っていたと聞いています。