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Civilizations and Impressions

文明と価値10(江戸時代の心性)

2023-01-03 06:27:35 | 論文

江戸時代の社会勢力と心性

 

 以上の社会秩序ないし社会勢力の考え方を仮説モデルとして、鎖国政策によって閉鎖モデルの典型的な事例となった日本の「江戸時代」を見ていきたいと思う。歴史でいうと江戸幕府成立から、大政奉還までが社会秩序として成立していた江戸時代であり、1603年から1867年がその存続期間ということになる。しかしこの仮説モデルでいうところの四つの期間における第一期はすでに1603年以前より始まっており、第四期は1867年以後に終わるということになる。

 

 大きな流れを説明していこう。第一期、これは江戸幕府成立前から始まっていた時期である。戦国武士の価値観、一向宗、日蓮宗、キリスト教の影響力が強く、死後の価値が高かったことがあげられるだろう。それと同時に藤原惺窩※1による懐の広い朱子学の普及の始まりが見られた。それは林羅山※2による朱子学の教学化へ続いた。旧社会勢力と新社会勢力の摩擦の産物としては中江藤樹※3、熊沢番山※4、山鹿素行※5が挙げられる。国学の発生として契沖※6が挙げられる。

 

※1 藤原惺窩の学風は単に朱子学というよりは陸王の学も排せず、老荘・仏教もとりいれた包容力ある学風で、むしろ明の心学の流れの上にあったとされる。

 

 ※2 林羅山は朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となった。

 

 ※3 中江藤樹は陽明学者。孝経を重んじ、その徳化の及んだ農民は彼を近江聖人と呼んだ。

 

 ※4 熊沢番山は朱子・陽明両学の長所を採り、政治を実際的な武士の立場からとらえ、時、処、位の三を知って実情に応じた方策を立てるべきだとした.

 

 ※5 山鹿素行は朱子学や陽明学に反対して孔子の原理への復帰を主張する古学派の祖の一人であるとともに、武士道の体系家として後世に影響を与えた。

 

 ※6 契中は真言宗の僧で国学の基礎を築いた。古典注釈、国語学に業績が多かった。

 

 第二期には朱子学の教学化に対する反作用として古学が発生した。日本における人文主義の発生ともいえるかもしれない。伊藤仁斎※1、貝原益軒※2、荻生徂徠※3らがそれだが、体制としての朱子学からの反作用も山崎闇斎※4、新井白石が挙げられるだろう。また人文主義的影響は儒学に限らず、国学の発展にもつながり、賀茂真淵※5の活動が挙げられる。また大衆への朱子学の影響は石田梅岩※6の心学の発生に見られる。朱子学の反作用として安藤昌益※7の革命的民主主義のような思想もあった。

 

※1 伊藤仁斎は生涯仕官せず、市井の儒者としてすごした。朱子らの注釈は孔孟の古義にそむくとしりぞけ、直接、原典論語、孟子について聖人の道を求めよと主張した。古義学派の創始者である。

 

 ※2 貝原益軒は朱子学派であるが、著作の範囲は医学、博物学に及ぶ。晩年、朱子学への批判を展開し、理気説に対して理気一元論を展開した。朱子学における格物致知が外部に向かったケースといえる。

 

 ※3 荻生徂徠は古文辞学派の祖。六経の正確な理解を通じて、新たな儒教体系の確立を目指した。古学派最大の思想家で、公私の分離を説き、経学への道を開いた。

 

 ※4山崎闇斎は吉田神道と朱子学を合わせた垂加神道を創唱した。

 

※5新井白石は朱子学者であるが、格物致知が歴史研究に向かったケース。その著西洋紀聞は洋学興隆の端緒となった。

 

※6賀茂真淵は万葉集の研究を通じ、古道を復活させようとした。国学の基礎を築いた。

 

 ※7石田梅岩は朱子学を基本に神道、仏教、老荘などを取り入れ、社会的職分を遂行するうえでは商人も武士に劣っていないと説き、商業道徳の確立を主張した。

 

 ※8安藤昌益(医師)は上層農民の出だが、身分制社会と儒仏思想を全面的に否定し、全ての人が自ら労働して生活する理想社会を提唱した革命的思想家。

 

 第三期は、第二期に発生した古典主義、科学思想、公私の分離と経学の発展という現象が見られた。ただし、儒教における古典主義はあまり見られなくなり、国学が本居宣長※1で成熟期を迎えた。科学思想については三浦梅園※2、蘭学者が多く登場するのも第三期の特徴であり、杉田玄白※3、平賀源内※4、前野良沢※5司馬江漢※6が挙げられる。蘭学はこの時期、幼年期であり、学問として普及を開始した※6。またこの時期は荻生徂徠の公私分離の影響から経学の発展も見られた。太宰春台※7、海保青陵※8、本多利明※9らが、挙げられる。鋭い批評精神として比較文化人類学的思想家として富永仲基※10や山片番桃※11がいた。

 

※1 本居宣長は日本古典の真意を言語学的、文献学的方法によって究明し、儒教仏教の道学的な世界観をはげしく批判し、もののあわれの強調によって人間性を肯定した。新しい市民意識を反映しているが、その神国思想、尊王観念は復古神道にうけつがれることになる。

 

 ※2三浦梅園は、儒学の他、天文学や洋学をおさめ、一種の自然哲学としての条理の学、反観合一を提唱した。経験科学の方法的自覚として先駆的であった。

 

 ※3杉田玄白は医学者、蘭学者で解体新書を訳述、蘭学の基礎を築いた。

 

 ※4平賀源内は発明家、博物学者、戯作者、浄瑠璃作者。多才にして世に受け入れられなかった。

 

 ※5前野良沢は医学者、蘭学者で解体新書訳業の中心だった。

 

 ※6司馬江漢は洋風画家、蘭学者。

 

 ※7太宰春台は荻生徂徠の経世的側面を受け継いだ。

 

 ※8海保青陵は漢学者、経済思想家。武士の人間関係を経済関係でとらえた。

 

 ※9本田利明は経世家。蘭書で地理を学ぶ。貿易の必要と商業の重要性を説いた。

 

 ※10富永仲基は神儒仏の経典に通じ、宗教や倫理の形骸化を批判。比較文化人類学的思想家として知られる。

 

※11山片番桃は商人として成功。仏教の信仰や神道の神話に容赦のない批判を行う。無神論者。

 

 第四期は、第三期に発生した蘭学の担い手が医者や農学者から兵学者へ変わった。国学も政治化した。平田篤胤※1、藤田幽谷※2の水戸学が挙げられる。著しいのは儒学の政治化であり、佐久間象山※3、横井小楠※4吉田松陰※5が挙げられる。経学としては、絶対主義的国家像を考えた佐藤信淵※6、農政家である二宮尊徳※7が挙げられる。そして、蘭学の担い手が、西洋の自然科学のみならず、社会科学を受け入れる担い手となり、明治を牽引する人物を生み出した。福沢諭吉※8、西周※9、加藤弘之※10、などが挙げられる。また儒学の政治化は教育勅語や民法典への影響に、国学は大日本国憲法へ影響を及ぼしたといえるだろう。

 

 ※1 平田篤胤は実証主義を重んずる師とは異質な説により、国学を宗教化した。平田学派は地方の豪農層・神官に広がり、幕末の尊王運動に大きな影響を与えた。

 

 ※2 藤田幽谷は後期水戸学の創唱者。大日本史の編纂につくすが、対外的危機を受けとめて尊王攘夷論を唱えた。

 

 ※3佐久間象山は東洋道徳、西洋芸術観念の提唱者。

 

 ※4横井小楠は実践的朱子学グループ実学党の中心。人類対等の思想に立つ独自の開国論を唱えた。西洋の民主主義を儒学の王道主義から評価した。

 

 ※5吉田松陰は松下村塾で明治維新の功労者たちを多く育成。

 

 ※6佐藤信淵は海外侵略と産業の国家統制、強固な民衆支配といった国家像を提示し、明治国家を先取りした。

 

※7二宮尊徳は農政家、農村復興の指導者。

 

 ※8福沢諭吉は明治の洋学者、啓蒙家。和魂洋才的理解でなく、資本主義文明を、それを生み出した精神から理解しようとした。儒学に代わる実学の必要を主張した。

 

 ※9 西周は明治啓蒙期の哲学者。日本に西洋哲学を紹介。

 

 ※10 加藤弘之は幕末、明治の国法学者。佐久間象山に兵学、洋学を学ぶ。明治に入り、天賦人権説を主張するが、自由民権運動の高揚に対して、反対の立場をとった。明六社同人。

 

 以上、事例として江戸時代を社会秩序の理論により、四期で考えてみたが、人物登場の時期は大雑把だが、その人物の一生の半分の年でとらえている※1。思想家の名前、活動時期の中点、活動内容と出生地をリストにしてみた。

 

太宰春台 1680 1747 1713.5

山片蟠桃 1748 1821 1784.5

 

 ※1 その人物の一生の半分の年でとらえる

 ある人物がどの時代に属するかは、その人の業績と関係することで、年齢とは関係のないことかもしれない。後半生において業績が現れる人もあれば、前半生で業績が現れる人もあるだろう。ただしその人物の歴史への登場に社会的背景があるものとしてとらえてみればどうであろう。その歴史的人物の年齢の半分で特徴を捉えるという原則を設定する方が、他の人物の登場をとらえるにあたり都合がいい。シュペングラーは政治、経済、社会、文化、特に芸術や数学に時代を特徴づける心象のようなものがあるとしていた(しかしここでは江戸時代の思想のようなものにしかふれていないが)。すなわちあらゆるジャンルの背景もしくは深層に横たわる共通する心象を把握するためには、こうした方法がもっとも恣意的でなく自然ではないだろうか。

 

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