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Civilizations and Impressions

準文明の研究8(辺境型準文明 極西型(イギリス・北欧)U

2022-06-12 13:30:02 | 論文

【2 極西型(イギリス、北欧)】

 

 イギリスの歴史は前55、54年ローマのカエサルのイギリス征服から始まったといってもいいだろう。ローマの文明が伝わったのだが、その後、ゲルマン民族の西ヨーロッパへの進出はヨーロッパ大陸に混乱をもたらし、5世紀には西ゲルマンに属するアングロサクソンがイギリスに侵入した。その後6世紀、グレゴリウス1世により、イングランドにカトリック文化が植えつけられ、ヨーロッパ大陸が混乱する中でラテン文化が誇る学芸は、ここイングランドで保存された。フランク王国のカール大帝はカトリックやラテン文化の復興をアルクインに任せたが、アルクインはイングランドの出身だった。このように極東における日本や朝鮮と比べて、極西におけるイギリスの役割は文化的にさらに強いものがあったといえる。これは辺境型準文明の一つの特徴を示すものであろう。辺境型準文明は時に「避難所」としての役割を果たすことがあった。日本においても唐時代の建築文化が、現在まで奈良に保存されたりした。ただイギリスのそれは広くヨーロッパ文明、カロリングルネッサンスのラテン文化復興の基礎を準備しただけでなく、それが修道院、中世ヨーロッパ文明の教会支配に続いていったところなど、その影響力はかなり大きく、異なっていたかもしれない。

  

 北欧については7、8世紀から12世紀頃にかけて生じてきたノルマン人によるヨーロッパ文明への侵入が挙げられる。こちらも大きな影響を与えた。北はロシア(ノブゴロド王国)、西はノルマンジー公国、南では両シチリア王国の誕生という具合に、中世ヨーロッパの農村社会を破壊し、商業社会を構築する刺激ともなったといわれる。ノルマン人はイギリスにも侵入し、ノルマン朝を立て、これがプランタジネット朝へ続いていった。ジョン王の時にはフランス領の多くを失い、貴族たちによってマグナカルタ(1215年)を立てられた。その後、王を制約する議会の力が強まった。

 

 イギリスと北欧はヨーロッパ文明の辺境ではあるが、たびたび似たような行動をとることがあった。ノルマン人のヨーロッパ進出はそのはじまりであった。

  

 プランタジネット朝は西フランスに領土を持っていたので、大陸の政治にしばしばまきこまれた。百年戦争(途中でランカスター朝に代わる)はフランドル支配をめぐりイギリスとフランスの間で戦われたが、最終的にはフランスが国家として確立、イギリスは島に閉じ込められることとなった。このことはイギリスの王権が多くの税収を失ったことを同時に意味していた。しかし百年戦争が終わった2年後の1455年、バラ戦争という貴族同士の戦争が起こり、その結果、貴族勢力は衰え、テューダー朝が成立した。

 

 テューダー朝は王権が集中化していった時代であり、ヘンリー8世はローマ教会から離れてイギリス国教会を作り、カトリック財産を王室に収容した。収容された土地はすでに新しく台頭していた地主層に売却され、イギリスが封建的農業でなく、企業的農業に変化していく大きな原因となり、これがジェントリの台頭となった。エリザベス女王の時代になると海にも進出し、アメリカにヴァージニア植民地を形成、海賊に海軍を兼業させたりしたが、1600年、東インド会社を他国に先駆けて立ち上げた(それより前、1555年にはモスクワ会社を立てていた:株式共同資本で交易した最初の法人)。かっての王権の税収喪失の記憶が王権を中心とした事業創出につながっていったのかもしれない。

 

 イギリス王室は百年戦争でフランス領を喪失し、税収を大きく減少させたため、中央集権を図りつつ、王室自ら事業参加することが多く見られた。国教会の創設、海賊の活用、植民地開拓、弱小国家イングランドはテユーダー王朝時代には事業成果もあり、社会全体が比較的安定していたためテューダー朝の間は王権が議会と揉めることは少なかった。しかしエリザベス女王に後継者がなかったため、スコットランドからジェームス1世を迎えてから、王と議会は対立するようになっていった※。次代チャールズ1世の時には清教徒革命(1640~1660)が起こった。クロムウエルは王党派や議会派の長老派を追い出して共和制を布いた。またアイルランドを制圧し、航海条例を布いてオランダとの戦争を遂行した。クロムウエルの独裁は短期間で終わり、王政復古となった。

 

 ※王と議会は対立するようになっていった。

 スチュワート王朝はカトリックの影響が強く、王権神授説をとっていた。事業主体としての王朝は特許として一部の商人に利権を与え、このため多くの商人が不満を持ち始めていた。王朝自体が、商人的な価値観を持っていたテューダー朝時代と異なり、スチュアート朝は貴族的、教会的な価値観に回帰した時代であり、「反作用力」的な時代であった。

 

 チャールズ2世、ジェームス2世と復活したスチュワート王朝は続いたが、この過程でイギリスは統治をしていくうえで後々最も重要となることを学びつつあった。ピューリタン革命を経て、共和独裁から穏健な王政に回帰したイギリスであったが、政治の安定が得られない中でしだいにこう考えるようになっていった。

 

「最も重要な争点とは財産をめぐる争いであり、財産という観点からすれば、右、左に関係なく過激な主張をする勢力をまずは抑えこむ、それによって、妥協の政体が形成される」。

 

 名誉革命への過程がそれであった。 「右であれ、左であれ過激な勢力を抑制したうえで、憲法を成立させる」という手法は後にイギリスが大英帝国を解体して植民地から撤退する際にも出てくるので覚えておいてもいい。ただし一方、英国の憲法が成文憲法でなく非成文憲法であることも同時に記憶にとどめておくべきだろう※1。

 

 ※1 イギリスは他国に自国の財産権を守らせるために成文憲法を作らせて枠にはめるのに対して、自らは成文憲法を作らず、法の理念はあるが、枠にははまらないのである。こうした国風は新自由主義の改革の時にも影響があったことだろう。

 

 名誉革命によってイギリスは対外的にはオランダと結び、海洋帝国として進路を確定し、オランダから資本を投入することとなった。イングランド銀行が設立されたのもこのころだ(1694年)。先の妥協の了解の上で党派性も考慮し、イギリスはトーリー(保守)、ホイッグ(自由)の二大政党に分かれたが、経過の中※1で議院内閣制が自然と出来上がり、7年戦争、産業革命の時代はホイッグ、ナポレオン戦争とその後の時代はトーリー、自由貿易時代はホイッグ(後に自由党)へと続いたが、18世紀以降は帝国と産業の発展と共に選挙法の改正、階級問題を中心に二大政党は進んでいった。第一次、第二次世界大戦を通してイギリスは国力を消耗し、帝国の利権をできるだけ残すためイギリス連邦をかかげるとともに、同時に福祉国家を目指したが、経済は停滞し、サッチャーの新自由主義※2で経済の再活性化を図り、これに成功した。

 

 ※1 経過の中で

 イギリスが議院内閣制になったのは、ジョージ1世(ハノーバー出身)が英語を話せず、閣議に出席しなくなったためで、議会に王が介入することがなく、議会の多数党の代表(ウオルポール)に政治の主導権を与えたところから成立した。

 

※3 サッチャーの新自由主義

 イギリスは第二次世界大戦後、労働党内閣の下で福祉国家を目指すようになり、産業国有化が進展したが、経済は停滞し、「英国病」といわれるようになった。そこに現れたのがイギリス最初の女性首相サッチャーであった。自助努力を訴え、労働組合に激しい攻撃を加え、「小さな政府」を掲げ、国有産業の民営化やロンドン株式市場を変革(ビッグ・バン)した。ヨーロッパ統合には懐疑的であった。

 

 辺境型準文明としてイギリスを見てきたが、イギリスはこの準文明をして世界帝国を建設したのだが、その成功の最大要因として挙げられるのは「名誉革命」であろう。イギリスは右であれ、左であれ過激勢力を抑えた後、妥協のルール(憲法)に落とし込むことで、常に(人間の問題の根幹といってもいい)財産すなわち利権をめぐる争いを解決してきた。この伝統的手法はサッチャー時代にいたるまで目に見えない財産となってきたのではないか。

 

 またこの時、幸運だったのはルイ14世と対抗するため、オランダという海洋、資本主義国家と結合できたことであろう。これに産業革命というハプニングが続いた。その後も中庸と妥協は常に繰り返されたが、経済と技術が階級社会の中では、継続して発展できなかったことが、この準文明の欠点だったかもしれない。

 

 長くイギリスを見てきたが、北欧を見ていこう。ここには別の辺境型準文明の姿があった。北欧スウェーデンやデンマークが台頭してきた時期は三十年戦争(1618年~1648年)の頃であり、イギリスのピューリタン革命(1646年~)と同じ頃であった。イギリスや北欧諸国の台頭には鉄の産出量と関係があったといわれるが、スウェーデン、デンマークといった国は三十年戦争では新教側として戦争に介入した。その後スウェーデンはロシアと戦争をして敗れ、デンマークはプロイセンと戦争をして敗れ、それ以後イギリスとは異なり、海外進出を図らなくなっていった。スウェーデンは1809年に立憲君主制成立、デンマークは1849年に立憲君主制が成立した。ノルウェーはデンマークとスウェーデンの間を行ったり来たりしたが、最終的に1905年スウェーデンから独立した。第一次世界大戦の時には、三国とも結束して中立を保った。

 

 第二次世界大戦の時には、デンマークとノルウェーはドイツに占領されたが、スウェーデンは中立を貫き、国力を温存した。イギリスのように中庸と妥協のルールを尊重しながらも、財産と外交をイギリスとは異なり、内向きの形で処理してきたケースのように思われる。中立だとか平和主義ということであるが、戦後のEFTAでは北欧諸国はイギリスと歩調を共にしていたし、逆にイギリスは北欧のように戦後は社会福祉国家を目指すようになった。

 

 北欧諸国は戦争に敗北して後、海外進出を本格的に望まなくなり、国内の福祉の充実を志向するようになっていったが、現在においても、スマートシティや新技術といった、経済や産業に明るいといったところがある。もしかしたら、ここから新しい産業革命(東欧と共に)が起こるのかもしれないし、こうした福祉国家も辺境型文明の一つの可能性としてあるのかもしれない。海によって遠く隔たれた日本もそうかもしれないが、日本は人口が多すぎるのが難点かもしれない。アイスランド、フィンランド、バルト三国もそのような個性を持っているかと思われる。アイルランドは島であるが、イギリスとの歴史やカトリック信仰からして、ヨーロッパ文明と固く結合しているところがあった。朝鮮と似ているような感じもあるが、朝鮮の中国文明に対する感情とアイルランドがヨーロッパ文明に対する感情とでは異なっていて、どちらかというと好意的なのではないか。ただこのアイルランドも、イギリス同様、世界に向かっていったということも忘れてはならないところである。

 

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